2013-01-01から1年間の記事一覧
音楽が人の心にしみこむのは速くて深く、その人を感化するのも速やかである。だから、先王は慎重に謹んでこの音楽を文飾した。音楽が中平であれば民衆は和して流れることはなく、音楽が厳粛で荘厳であるならば民衆は整って乱れることがない。 民衆が和してい…
法と禮(礼)は同じものなのか、違うものなのか、ということで、いろいろ研究らしきことをしていたのだけど、この二つのものの違いが分かった。 つまり、法は禮の一部分でしかない。ということである。 現在の法で規制できることは、あくまで行動などだけで…
今、「憲法の常識 常識の憲法」百地章著(文芸春秋)というのを読んでいるのだが、その冒頭にある、国家と憲法の関係についての部分が興味深いので、特に其の中でも、国家論に関する学説を抜粋して、まとめておくことにした。 あと、個人的な独断によって、…
楽論(音楽に関する論)第二十 一章 楽(音楽)というものは楽(楽しみ)である。人情が必ず免れないものである。つまり、人には楽しみがないというわけにはいかないし、楽しめばそれは必ず声に出たり行動に現れるのである。このために、人の道は、この音声…
十五章 三か月のかりもがり(死者を埋葬しない期間)があるのはどうしてか。 答えて、それは死と死者を尊んで重んずるからである。今まで貴んでいた所、今まで親しんでいた所であったこの死者を、これから動かして移し、家から離れて丘に帰そうとするのであ…
四編 今、学者がやるべきこと学者の職分を論ず第一段落 日本が、今後独立の地位を保てるのか?という問いに対して、現在は疑問符が付く状況である。だから、日本は進歩しているようではあるけれど、何の疑いもなく独立の地位を得ているわけではない。こうい…
十三章 三年の喪とはどういったものか。 答えて、情とつり合いをとって文(かざり)を立て、そのことによって人間関係を飾り、親疎と貴賤の節操を弁別して、損益がないようにするものである。この故に、無適不易の術(他に適当な方法は無くかわることのない…
十二章 喪禮とは、生者によって死者を飾るものである。だから、大いに生きていることにかたどることによってその死を送るのである。だから、死んでいるかのようであり、生きているかのようであり、存在しているかのようであり、亡くなっているかのようであっ…
十章 禮というものは、長を絶って短を継ぎ、余分を損して不足を増し、愛敬の文を達して、いよいよ義を行うことの美を成すものである。 だから、文飾することと粗野で生地のままであること、音楽の儀式とと泣き叫ぶ儀式、恬愉(おだやかで愉快であること)と…
最近、「水平分業」という言葉でネット検索をかけると、私のブログ記事http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130226/1361875378が一番上に来るようになっていて、その記事を読んで下さる方も多いみたいなので、以前、書きかけにしていたこの記事を最後まで書い…
八章 禮というものは、吉凶(得失)の分別を謹んで、その得失の両方を覆わないものである。 わたを鼻に押し当てて息があるかどうか聴くとき、忠臣や孝子はただその病であることだけを知って、納棺する準備や死装束の準備をしたりはしない。涙を流して畏れお…
三編 国の独立と人民の独立国は同等なること第一段落 一人が一人に対して力の強さだけによって無理を加えるなら、それは、二人が二人に対して無理を加えるのと、権利を無理に侵害しているという点で何ら変わりがない。だから、人の権利が同等であることと同…
七章 禮というものは生死を治めることを謹むものである。生は人の始まりであり死は人の終わりである。始終をともに善くすることができて人の道は尽くされる。この故に君子は、始めを敬して(大事にして)終わりを慎み、始終があたかも一つであるかのようであ…
はじめに 最近は、ブログが炎上してしまったり、テレビで新聞で変なことを言ったばっかりに、みんなからの信用を失ってしまう人が多くいます。維新の会の橋下氏もマスコミを利用して宣伝しようとするあまり、結局のところ逆にみんなからの信頼を失ってしまい…
五章 禮の理は誠に深い、堅白同異の察(堅くて白い石は、堅いことと白いことは同じことであるとか、堅いことと白いことで分かれているとかの詭弁)もここに入り込めばすぐに溺れてしまう。その理は誠に大きい、自分勝手に典籍を作る偏った世間知らずの説もこ…
※ここから先の要約は、分かりやすい要約ではありません。この要約を読んだ「だけ」で学問のすすめを読んだつもりにならないように!あんまり役に立ちません!これは、興味が薄れた方に全文読もうというきっかけにして頂くためや、熱心に読んでいる方に予習や…
二章 禮には三つの本がある。 天地は生の本であり、先祖は類(人類)の本であり、君師は治の本である。 天地が無ければどうして生きることができようか、先祖が無ければどうしてこの世に出ることができようか、君師が無ければどうして治まることがあろうか。…
第三章 国民の権利及び義務 考察1 第十五条の第二項には、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とある。 今読んでいる本「今知りたい 東京新聞政治部編 日本国憲法」によると、 以下要約抜粋 >> この第二項は公務員が特定の政…
禮論第十九(禮は礼の旧字体、礼が何であるか、この旧字体の方がうまく象形していると思ったので、特にこの礼のことを明らかにする禮論では、敢えてこの禮という字を用いることにした) 一章 禮はどのようにして起こったのだろうか? 答えて、人は生まれなが…
堯・舜・禹と言えば、中国の伝説的かつ理想を体現した王のことで、荀子の記述によると目が三つあったり、100歳を越えるまで生きていたらしいから、ほとんど想像上の人物であろうと思われる。史記の記述によると、禹に至っては、死んだ父の腹を裂いて生まれた…
要約を利用する方へ こちらは、2014年7月下旬にkindleで発売した「学問のすすめ 読みやすい要約」のサンプルとなっております。初編だけこちらでご紹介しますので、気に入られた方は是非ご購入していただきたいと思います。文字量は原文の約半分となっており…
八章 宋先生(子宋子)は、「侮られることは恥とするに足らないことを明らかにできれば、人を争わせないようにできる。人は皆な、侮られることを恥とするから争う。だから、侮られることが恥じるほどのことでないと知るのならば、争わなくなるのだ」と言う。…
六章 世間で説を展開する者の中には、堯や舜は教化することができなかったと言って、それがどうしてかと問うてみれば、朱や象(彼ら自身の子弟)すら教化できなかったではないか、と言うけれど、これはそうではない。 堯や舜なる者は、至って天下を善く教化…
第一章 天皇 考察1 天皇は象徴symbolなのか、元首headなのかということの議論は、中曽根試案というものに書かれていることらしい。 このことについて、私が思うには、象徴の方が現代に合っていると思う。だから、これを元首にするのは不適当であると思う。な…
五章 世間で論説を展開している者の中には、堯や舜は禅譲したのだと言う者がある。 しかし、これはそうではない。天子という者はその位は至って尊いもので天下に比肩する者はない。そうれなのにどうやって譲ろうと言うのか。道徳が純粋に備わっていて智慮は…
三章 世間で論説を展開している者の中には、治まっていた古の時代は肉刑(実際の体罰)はなくて、象刑(体罰をかたどった刑罰)しかなかったと言う。刺青の刑では、ただ黒い布を被るだけであったし、はなそぎの刑では冠の紐をさらし布にするだけであったし、…
二章 世間で説を展開している人は、このように言う。桀王と紂王は天下を保っていたのに、湯王と武王はこれを簒奪したのだと。 しかし、これはそうではない。桀王や紂王が、嘗ては天子の位に居たということはその通りである。そして、自分では天子の位に居た…
この前、図書館で 「英語で日本国憲法を読む」(島村力・グラフ社)という本を発見して、読んでいる。 日本国憲法は、マッカーサーの指導によって作られたものであるから、英語から考えて日本国憲法について考えるのは、とても重要なことと思う。著者の方も…
史記を読んでいると、いろいろと残念なことがある。 というのも、君主が交代することや、君主があまりにも愚かであったり、君主や他の重臣の保身のためであったり、それらの人が賢者や能力者を妬むことにより、功績を挙げていた賢臣が退けられてしまうことが…
正論第十八 一章 世俗の論者は「君主というのは、周密であるのがいい」と言う。(周密:本来は緻密であまねくに行き渡るという意味であるけど、限られた人間の力で、全き緻密を保てる範囲は当然狭くなる。だから、君主が周密であろうとすると、側近や家族と…