149.荀子 現代語訳 禮論第十九 十五・六章

十五章

 三か月のかりもがり(死者を埋葬しない期間)があるのはどうしてか。

 答えて、それは死と死者を尊んで重んずるからである。今まで貴んでいた所、今まで親しんでいた所であったこの死者を、これから動かして移し、家から離れて丘に帰そうとするのである。この時に当たって、先王はこれが不文であることを恐れた。こういったわけで、その期間を長くして、それに費やす日を十分にしたのである。

 だから、天子は七ヶ月、諸侯は五ヶ月、大夫は三ヶ月で、そうしてみなその期間で準備をするのに十分であり、準備をして準備を整えるのに十分となり、準備を整えてそれを文(かざ)るのに十分となり、文ってそれが完全に備わるのに十分となるのである。だから、十分な期間を設けて、要所を押さえて細かいことまでそられのことを全て備えることを道と言うのである。

十六章

 祭(儀式)というものは、志意思慕が積まれたものである。感動して鬱憤して少しも至らないということがないのである。

 だから、人々が楽しげに和して集まっているときは、忠臣や孝子も感動して至るところがあるのであり、彼の心がこうして至ることによって彼は心を大きく動かしたいと思うのであるけど、この心の自由を抑えつけてしまうなら、その心の思いは積み重なっているのに、これを尽くすことができなくて物足りなくなるのであり、すると、その礼節もはっきりしないまま備わらないことになってしまう。この故に、先王は、このために文を立ててその心が尽くされるような儀式を制定して、尊ぶべきものを尊び、親しむべきものを親しむということの義が至るようにしたのである。

 だから言うのだ、祭(儀式)というものは、志意思慕の積まれたものであり、忠信愛敬の至りであり、礼節文貌の盛んなものである。仮に聖人でもない限りこれをしっかり知ることはできないと。聖人は明らかにこのことを知っていて、士君子は安んじてこの儀式を行い、役人はこれを自分の守りどころとして、百姓はこれによって習俗を成すこととなる。君子のうちに在ればこれを人の道であると思い、百姓のうちに在ればこれを鬼神の事であると思う。

 こういったわけで、儀式に使われる楽器とそこで奏でられる音楽とは、君子の感動をその喜び楽しむところに釣り合うための文(かざり)なのである。
 喪の期間中にあばら小屋で質素な服を着て黒い杖を持って粥をすすり薪を寝床にして土くれを枕とするのは、君子の感動がその哀しみ悼むところに釣り合うための文なのである。
 軍事において制度があり刑法には等差があって罪にはそれに釣り合った刑罰があるのは、君子の感動がその嫌い憎むところに釣り合うための文なのである。
 
 この故に、祭をするのに、占いをして日を決めて、ものいみして清らかにして机や敷物を整えて奉納をして、神に告げること本当にそれを受ける者があるかのようであり、物を取ってこれを勧めることは本当それを口にする者があるかのようであり、また盃に酒を入れることは本当にその盃を受ける者があるかのうであり、祭が終わって服を着替えてすすり泣くことは本当にそこを去った者があるかのようである。

 哀しいかな、敬すかな、死に仕えることも生に仕えるかのようで、亡に仕えることも存に仕えるかのようで、影も形もないところに形を作り、そうしてから文を成しているのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子の儀式への考え方が、天論と連動して端的に示されていると思う。論語には、「子、怪力乱神を語らず」とあり、また「鬼神は敬して遠避く」とあるが、その言葉に則ったまま、儀式が何であるかということを明らかにしているように思う。▼「君子のうちに在ればこれを人の道であると思い、百姓のうちに在ればこれを鬼神の事であると思う」というのもいかにも荀子らしく、賛同できることである。