文盲であることの例え

私の世代くらいまでは、文盲な人のことを「あいつは自分の名前も書けない」とか、「住所が漢字で書けない」と言うような慣習があると思う。
もっとも、冗談交じりの皮肉ではあるが。

それで、ここからが本題なのだけど、ここまでではない文盲な人のことを、「あいつは新聞も読めない」と言うことがあると思う。
しかし、最近は新聞の発行部数も減り、「新聞を読めない」どころか、「新聞を読もうとしたことすらない」人もいるだろう。

なぜ、こんなことを言い出すかというと、『軍の中国史』という講談社現代新書の編集者か著者が、この「新聞を読もうとしたことすらない」人で大変に驚いたからだ。

というのも、本当に驚いたのだけど、送り仮名の付く漢字が全て「ひらがなてんかい」(平仮名展開)されていたのだ。
ひらがなてんかいとは、まあ、今私が名付けた文章の表現方法のことで、漢字を使うと分かりにくい場合に、敢えて漢字を使わず、ひらがなで書くことである。
確かに使い方によっては、女性らしさを醸し出したり、文脈上で強調の伏線を作ることもできる。

『軍の中国史』の著者は女性のようであるから、そういった配慮でそのようなひらがなの使い方をしたのかもしれない。けれど、あまりにもひどすぎて、分かりにくいし、気になってとても最後まで読もうという気にすらなれず、内容は興味があるのだけど、50pくらいでもうそれ以上読み進めるのは無理な状況になってしまった。

どれほどひどいかと言えば、小学一年生ですら知っている、ちいさい、おおきい、すら全て「ひらがなてんかい」されているのだ。まあ、こういった意図をもってやった本人は、「文学性」が高まったとか思っているのかもしれないけど、私は、頭が悪そう、読みにくいという印象しか持てなかった。

また、最近は、「行う」もひらがなてんかいが主流になってきているようだけど、これも新聞では、「行う」と漢字で表記されている。確かに、「行事を行った」という場合には、「行」が重なるので、ひらがなてんかいしたほうが良いかもしれない。

しかし、「演習をおこなった」では、頭が悪そうで意味が分からないばかりである。ここは、従来通り「演習を行った」とするのが、常識、中国古典風に言えば、礼というものであろう。

そもそも、漢字表記の利点とは、漢字が表意文字であることにある。だから、極端ではあるけれど、「演習行う」としても意味が分かるのが漢字の良さなのだ。「演習おこ」では意味が分からないことは言うまでもない。

文章を司っている出版社の人間がこういったわけのわからないことをやりだすと、日本人全員が文盲になってしまう。平仮名を使う場合には漢字の良さと、常識をよく考慮した上で、選択肢としなければならない。

とはいえ、これもたまたま今知ったのだけど、国会議員のK山Sつき女史も、「仏像は日本のオリジナルの文化」という発言をしているし、作家、テレビディレクターとして有名な、H田N樹氏は、「中国を偉大と思わせる漢文の授業は廃止せよ」と、雑誌で主張したらしい。文壇や国会で活躍する人でもこのようであるからには、文盲な人も受け容れられるようなリベラルな空気が日本にはあるということかもしれない。もちろん皮肉だが。