日本人には臆病者が多い

「日本人には臆病者が多い」現在の北朝鮮への反応を見ていると、そのようにしか思えない。

北朝鮮のミサイルが、怖い、不安」と率直に認めている人はまだいいが、大勢を占める意見は、「北朝鮮は病原菌ウイルスで悪の総本山」「北朝鮮と関わったやつは殺せ」「北朝鮮を近づけるな」「北朝鮮を今すぐ攻撃せよ」だ。

攻撃とは、不安や恐怖の裏返しであり、もっと言えば、人が攻撃したいと思う時は、強欲によって何かを奪いたいという強い衝動が動機の場合を除けば、必ず、「恐怖」によるのだ。だから、弱い犬ほどよく吠える。怖いから吠えるのだ。ところで、怖がること極端な者を臆病者と言う。ならば、そういった意見を言う人は、「自分が臆病者だと思いたくない臆病者」「自分を臆病者と認めるのを極端に恐れる臆病者」であるということになる。さらに言えば、アメリカが怖くて仕方がなく、水爆やミサイルを作って、吠えまくる北朝鮮の臆病魂と何も変わらない。

じゃあ、臆病者を批判するアンタの意見はどうなんだ?という話であるが、

まず、一番のネックは、このまま北朝鮮を容認すれば、第二第三の北朝鮮が他の東南アジア諸国や中東などから生まれてしまう可能性があることだ。だから、必ず、表向きには北朝鮮への批判を強め、強気に行動しなければならない。ここで、「水爆持っていてどうしようもないから、あなたの意見認めます」とすれば、みんな「あ、オレもオレも、秘密裏に水爆開発して、自分のやりたいようにやります」と言い出すし、実際にそういった計画を実行に移すようになるだろう。これは防がなければならない。だから、表向きには、必ず武力や制裁によって、威圧しなければならない。

かと言って、これだけでは北朝鮮の恐怖心をさらに煽り、北朝鮮の孤立をさらに強め、北朝鮮の判断をさらに思いにそぐわない方向に向かわせてしまう。ならば、融和を促す密使を送り、お互いの恐怖心を解くための話し合いをするしかない。しかし、これはあくまでも、密使や裏ルートでなければならないのだ。このへんが外交の駆け引きということになるだろうと思う。あるいは、欧米諸国は、北朝鮮と表向きの外交ルートがあるから、こちらのルートを使うというのも手である。

または、北朝鮮内部で、決定機関(金正恩氏か、軍上層部か)を孤立させるのも一つの手である。もっともこの場合は、スパイを使わないとならないから、諜報機関のない日本にはできないことだ。
詳しい策としては、万が一、北朝鮮が核を使えば、北朝鮮は間違いなくケチョンケチョンにやられて、国土はゼロどころか、マイナスの焦土になってしまう。この事実を下層の軍人や民間人によく分からせれば、最後の最後で、決定機関に従う者はいなくなり、そもそも戦争は起きないか、起きても北朝鮮内部でのクーデターだけで終わる。

とにかく、もはや、こうなってしまった以上は、決定機関の暴走している要人全てが一気に死ぬとかでもない限り、必ず武力による解決が待っていることだろうとは思う。平和的解決はあり得ない。良くて先延ばし、次善で北朝鮮内部でのクーデター、最悪は北朝鮮の全焦土である。最善の平和的解決は、第二第三の北朝鮮を生み、本質は先延ばしになる。とはいえ、この先延ばしの問題について厳密に言えば、力が無ければ生きていけない、人間の本質の問題なのではあるが。

政治家の人気と人物評価について

政治家という種類の人は、本来は、「人気」などという不確かなもので選ばれるべき人ではないと思うが、残念ながら、その「人気」によって選ばれているのが現状かと思う。

孫文の自伝で、孫文がかなり有名になったのは、多分「人気」があったのが理由だろうという分析をした。このことに気づいて以来、この「人気」というものの、不確かさに反比例するかのような影響力の大きさについて、非常な疑問や重要性を感じるようになった。

最近の人であると、小泉進次郎氏がかなり「人気」のある政治家であると思う。しかし、残念ながら、実力はイマイチで、大臣に任命したら、答弁ではかなりボロを出すものと思う。いろいろな憶測があるようだけど、彼が大臣にならないのは、このような理由が主であろうと思う。ここで大臣になったら、間違いなくとは言わないけど、かなりの確率で「人気」は急落してしまうだろう。

さて、その人気のある小泉氏であるが、父親は、今でも人気のある小泉純一郎元首相である。彼は、トリクルダウン理論(社会の上層が富裕となれば、中層下層にもその恩恵が及んで皆富裕となるという理論)に基づき、派遣法、年金、郵政民営化など、いろいろな改革を推し進めた人である。言うまでもないけれど、彼の及ぼした影響は、庶民にとってかなり悪いものであった。これはそのような結果が出たとして間違いないだろう。それにも関わらず、未だに人気があり、その息子まで人気があるのはなぜか。
正直なところ、私の人物評価から言わせてもらえば、小泉一家は、日本に悪影響を及ぼすことはあっても、善い影響を及ぼすことはないから、もはや人気があって良いはずもなく、さっさと政界から消えてほしいとすら思っている。

それなのに、「人物評価」ができない大衆は、イメージと印象による不確かな「人気」を頼りとして、彼らに期待していることになる。

一方で、3.11の大震災でいろいろ尽力し、一時とは言え、全原発を停止にした菅元首相の働きは評価に値する。しかし、残念ながら人気がない。人気がない理由は、氏が怒る姿を見せるのが原因であると思う。「国民のために怒っている」というアピールなのだと思うけど、怒る姿というのは、理由はどうあれ、人々から忌避されるものなのだ。これについては私も手痛い失敗をしたことがある。しかし、アダム・スミス道徳感情論で、この事実を理論的に諭され、やっと気づいたことだった。

また、野田前首相も、日本の放漫財政の責任を一手に引き受けて、消費税増税に踏み切った点は、ここ20年で一番評価できる政策だったと思う。尖閣諸島の国有化も英断としか言いようがない。つい最近では、天皇の退位について、始めは頑なに拒否し、譲歩しても、特例法にこだわる自民党に詰め寄り、陛下ご自身、また国民の意向を実現するように働きかけ、特例法に付帯法で制度の恒久化を取り付けた。陛下、また国民からすれば、これほどの功労者はいないだろう。それなのに、おそらくは、見た目もやることも地味であることから人気がない。もちろん、消費税の増税も人気のない理由だろうけど、これは、悪評を買って、日本の未来を少しでも救ったとしか言いようがない。少しでもと言うのは、安倍首相が自分の人気を落とさないために、これを延期してしまったからだ。

あと、小池都知事も人気があるようだけど、彼女に至ってはどこがいいのかすら全く見当もつかない。女性政治家への期待という時流のみによって、わずかばかりの間、人気があるに過ぎない人物ではないかと思う。ただ、かなり体力はおありのようで、演説など、いろいろなところに実際に行けたという点では、東京都で人気が出たのもうなずける。

歴史的人物でも、坂本龍馬はかなり人気がある。詳しく評伝などを読んだことはあるわけではないが、私は大した人物ではないと思う。概略だけ見れば、好き勝手やっていただけではないか。その点、彼よりも、西郷隆盛渋沢栄一福沢諭吉のほうが、現在の日本に及ぼした善い影響は多いだろうし、人物としても評価できる。しかし、坂本龍馬や、ただの自衛部隊であった新撰組への人気は高くても、ここに示したような人物、あるいは伝記にも残っていない真の功労者たちへの人気はほとんどない。

このようなことを言うと、上から目線だと叩かれるかもしれないが、ほんの少しでも「人物評価」ができる人は、ほとんどいないことになる。不確実でイメージの範疇を越えない「人気」というものが、この世の中の大半を支配しているのだ。また、この不確かな「人気」に期待してしまうのが人間の弱さということかもしれない。私も小泉一家にはさっさと消えてほしいと思いつつも、進次郎氏には善政を期待するところである。

明日は我が身

新聞の県版のところには、事件・事故の記事がある。

記事になっているのは、軽犯罪・火事・飲酒運転・自動車事故だ。
事件事故の起きた住所と、関係者の名前及び年齢が書かれている。

軽犯罪であると、万引きの記事もある。
私の記憶では2000円の万引きでも、氏名と年齢が書かれるし、その犯人のその時の所持金も書かれることになる。万引きで悪質だなと思ったのは、9000円分のビールなどを盗んで23万円所持というのがあった。

最初のうちは面白半分というか、知り合いが乗っているかもしれないみたいな好奇心、あるいは、知り合いの名前があったら絶縁しようなどの考えでこれを見ていた。

しかし、毎日見ているうちに考えは変わってきた。

「明日は我が身」だ。

人の運命なんて、明日はどうなるか分からない。
私だって、家が火事になり、財産も身寄りもなくなり、明日には万引きをしなければ生きていけなくなるかもしれない。
また、決して酒乱ではないが、何かの拍子に酔った勢いで運転し、事故を起こすかもしれない。
因縁のある人間とばったり会い、お互い機嫌が悪かったことから傷害罪に至るかもしれない。

とにかく、そこに書かれている犯罪が身近で、さらになんともいえない具体性があるだけに、「明日は我が身」との心が起きてくるのだ。

一度このような気持ちになれば、やすやすと犯罪者批判に興ずることなどできるはずがない。
それなのにどうだ?
このネット上での犯罪者叩きの凄まじさは?
「明日は我が身」どころか、犯罪者予備軍ばかりではないか?


私は、幸運にして、論語や仏典、聖書などをよく読む機会に恵まれた。
このことを実にありがたく思う。

文盲であることの例え

私の世代くらいまでは、文盲な人のことを「あいつは自分の名前も書けない」とか、「住所が漢字で書けない」と言うような慣習があると思う。
もっとも、冗談交じりの皮肉ではあるが。

それで、ここからが本題なのだけど、ここまでではない文盲な人のことを、「あいつは新聞も読めない」と言うことがあると思う。
しかし、最近は新聞の発行部数も減り、「新聞を読めない」どころか、「新聞を読もうとしたことすらない」人もいるだろう。

なぜ、こんなことを言い出すかというと、『軍の中国史』という講談社現代新書の編集者か著者が、この「新聞を読もうとしたことすらない」人で大変に驚いたからだ。

というのも、本当に驚いたのだけど、送り仮名の付く漢字が全て「ひらがなてんかい」(平仮名展開)されていたのだ。
ひらがなてんかいとは、まあ、今私が名付けた文章の表現方法のことで、漢字を使うと分かりにくい場合に、敢えて漢字を使わず、ひらがなで書くことである。
確かに使い方によっては、女性らしさを醸し出したり、文脈上で強調の伏線を作ることもできる。

『軍の中国史』の著者は女性のようであるから、そういった配慮でそのようなひらがなの使い方をしたのかもしれない。けれど、あまりにもひどすぎて、分かりにくいし、気になってとても最後まで読もうという気にすらなれず、内容は興味があるのだけど、50pくらいでもうそれ以上読み進めるのは無理な状況になってしまった。

どれほどひどいかと言えば、小学一年生ですら知っている、ちいさい、おおきい、すら全て「ひらがなてんかい」されているのだ。まあ、こういった意図をもってやった本人は、「文学性」が高まったとか思っているのかもしれないけど、私は、頭が悪そう、読みにくいという印象しか持てなかった。

また、最近は、「行う」もひらがなてんかいが主流になってきているようだけど、これも新聞では、「行う」と漢字で表記されている。確かに、「行事を行った」という場合には、「行」が重なるので、ひらがなてんかいしたほうが良いかもしれない。

しかし、「演習をおこなった」では、頭が悪そうで意味が分からないばかりである。ここは、従来通り「演習を行った」とするのが、常識、中国古典風に言えば、礼というものであろう。

そもそも、漢字表記の利点とは、漢字が表意文字であることにある。だから、極端ではあるけれど、「演習行う」としても意味が分かるのが漢字の良さなのだ。「演習おこ」では意味が分からないことは言うまでもない。

文章を司っている出版社の人間がこういったわけのわからないことをやりだすと、日本人全員が文盲になってしまう。平仮名を使う場合には漢字の良さと、常識をよく考慮した上で、選択肢としなければならない。

とはいえ、これもたまたま今知ったのだけど、国会議員のK山Sつき女史も、「仏像は日本のオリジナルの文化」という発言をしているし、作家、テレビディレクターとして有名な、H田N樹氏は、「中国を偉大と思わせる漢文の授業は廃止せよ」と、雑誌で主張したらしい。文壇や国会で活躍する人でもこのようであるからには、文盲な人も受け容れられるようなリベラルな空気が日本にはあるということかもしれない。もちろん皮肉だが。

森友学園問題について

森友学園の問題について、内容の究明とかは、それほどしなくてもいいと思う。

あくまで私の印象ではあるが、森友学園の籠池氏が真っ白な人間でないことは確かであると思う。また、政治家、特に与党や維新の人間は、この問題にいくらかは関わっていることも確かと思う。

しかし、真っ白な人間なんてそうはいない。
そういった意味で、関わりがあったことは間違いないが、その中で悪意に基づく違法行為や不法行為があったかどうかは分からないということであると思う。
この上で、恐らく、今の感じだと、もう、この問題によって安倍自民党が完全失脚ということはないだろう。

だが、それでも私は、この問題を契機として、安倍氏の地盤が緩んでいくであろうことだけは断言しておきたい。

というのも、この問題を通して、「安倍氏は、いざとなったら仲間や支持者を切り捨てるばかりか、全ての悪評をなすりつける薄情な人物である」ことが、さらに明らかとなったからだ。利害関係や脅迫関係だけで結びついている人は離れないかもしれないが、信頼関係が「あると思っていた人」は、これを機に少しずつ安倍氏の元を離れていくことになるだろう。

人というものは、一人では何もできないし、できることには限りがある。だから、人や組織の強さというものは、どれだけの信頼関係を結べたかで決まる。いざとなったら切り捨ての利害関係というのは、強いようで弱い。その証拠に、会社と利害関係を結ぶサラリーマンはリストラされるし、金を渡さなくなった女からヒモはすぐに離れる。強いようで弱い、すぐに切れる関係が、利害関係なのだ。

また、安倍氏が入れ込んでいると言われている日本会議とやらのメンバーも少しずつ減るだろう。そして、寄ってくるのは、利益を手繰り寄せようという「思想への同調を装ったビジネスマン」ばかりになるだろう。思想集団がこうなったらおしまいである。結びつきが利害関係だけの思想集団、それは単なる「カルト企業」に他ならないのだから。

好悪と是非について

あまり気付いている人はいないのだけど、人の判断基準は、主に「好悪の感情」と「是非の理知」の二つの要素により成り立っている。

好悪というのは、好きか嫌いか、好ましいか厭わしいのか、快いのか不快なのかなどと言ったもので、喜怒哀楽の四情に並ぶものである。これも、あんまりみんな気付いていないのだけど、実は感情の中で行動に大きく関与するのは、喜怒哀楽の四情よりも、好悪の感情のほうである。なぜか日本では、感情と言ったとき、好悪を含める人はほとんどおらず、喜怒哀楽の四情のことばかり言う。私も気がついていなかったのだけど、『荀子』には喜怒哀楽好悪、人にはこの六情がある、と書かれているのを読んで以来、そうに違いないことに気がついた。

次に是非というのは、正しいのか間違っているのか、そうなりそうなのかそうなりそうでないのか、良いのか悪いのか、と言ったものである。これは、『孟子』の四端にもあるように、人ならば誰でも持っている理性的判断を求める気持ちのことだ。これは、感情とは少し違う。というのも、1+1=2は、是で間違いないだろうけど、この正しさを求める気持ちは、感情とは明らかに違う。また、1+1=?と答えがわからない時、正しい答えを知りたいと思う気持ちがあるが、これは好奇心などとも少し違う。だから、正しさを求める気持ちは、理性であって、感情とはかなり様相の違うものなのだ。

これで言葉の定義はだいたい終わった。

次には、好悪と是非がどのように人の判断に影響を及ぼしているかを、カレーライスへの意見で考えてみよう。

例えば、カレーについて、

Aさん「ぼくはカレーライスの味が大好きです」
Bさん「みんなもカレーライス好きだし、私も好きです」
Cさん「カレーライスは、スパイス豊富で健康にも良いし、好きです」
Dさん「安倍首相が高級カレーライスを食べたという話を聞いて以来、カレーが嫌いです」

という4つの意見があったとき、ここに、「好悪」と「是非」の判断要素がカオス的に入り混じっていることに気がついていただけるだろうか。

Aさんは、恐らく純粋に「好悪」によってカレーを判断しているだろう。
Bさんは、一見すると「好悪」によってカレーを判断しているようだけど、「みんなの意見」を参考にしていることから察するに、「みんな好き⇒みんな好きなものは良いものに違いない⇒私も好き」という具合に、是非の判断が少なからず含まれていると思われる。
Cさんは、「健康に良い」という是非の判断が、少なからず好悪の感情にかなりの影響を与えていると思われる。
最後Dさんに至っては、「安倍首相」が嫌いなのだろうと思われるけど、なぜ安倍首相が嫌いなのかそもそも分からない。だから、好悪や是非がどのように入り混じっているのか、推測することができない。

ちなみに、私はカレーライスが好きである。

さて、またさらに難しいことには、例えばここで、誰かが「カレーライスは是か非か」と、司馬遷の「天道是か非か」ばりに(笑)問い詰めた時、これら四人はどう答えるだろう。

Aさん「カレーライスは非だ。炭水化物量の関係でカロリーが高すぎるのに食べすぎてしまう、というか好きだけど、毎日食べたら必ず太る」
Bさん「カレーライスは是です。みんな好きだから、是でしょう」
Cさん「カレーライスは是です。ただ、食べ過ぎれば非です」
Dさん「そもそも安倍首相は、公金の給料をもらっているくせに、高いカツカレーを食べて庶民を舐めている、それに、年金もアレだし、戦争法強行採決なんて…(以下略」
といった具合に、好悪の感情と、是非の理知を別に考える人もいれば、そうではなくて、好悪の感情をそのまま是非に適用する人もいるわけであるし、好悪の感情と是非の理知を混沌の中でゴチャゴチャにしてしまう人もいるわけである。

それで、何が言いたいかと言えば、このように、「好悪」と「是非」を明らかに説明すると、「好悪と是非をごっちゃにするやつはアホだなぁ」と思われるかもしれないが、実は、ほとんどの人が、「好悪」と「是非」をごっちゃにしているということである。

このことについては、上までの議論を思い出しながら、自分の明らかな心によって、自分を点検すれば、すぐに分かるはずなのだ。

それで、心に明らかさがある人ならば、どこかで、自分は是非と好悪をごっちゃにしていたことに気がついていただけるものと思うが、別に「これは自分の好悪だ」と割り切って、好悪に付き合っているうちはいいのだ。しかし、ここが重要なところなのだけど、人というものは、「是非の判断をできない場合に、好悪の感情を是非の判断とする」から問題が起こる。逆もまた然りで、「好悪の判断で満足している人に、是非の判断を押し付ける」から問題が起こる。

例えば、トランプ大統領が非だ、と言う人は多いだろう。しかし、なぜ非なのか、と問い詰めた時、「排外的なことをするから」と答えると、これは実はかなりの議論が必要なことだ。そもそも、なぜ「排外的なことをする」と非なのか?

または、最近だと、不倫した芸能人とかはクソ叩かれる、だから、その芸能人は人格を非とされた上に、皆から嫌われて、もう大変なことになってしまうが、なぜ不倫は非なのか?

俗に言う腐女子は、いわゆるホモやゲイが好きなのであろうが、ごくまれにこういった人に「同性愛は人類の敵だ」とか突っかかる人がいる。カレーを好きな人は気にならないのに、どうして腐女子の好みは気になるのか?

イスラム国のテロは、確かに非であるように思われる。しかし、イスラム国内部では、自爆テロをした人は英雄であり、皆から好かれるだろう。ならば、その自爆犯も、少なくともイスラム国の人からすると、好であり是であるのだ。なのになぜ、イスラム国のテロ犯を悪(にく)み非とする人がこれほど多いのか?

こんな細かいことまで考えている人は、そうそう滅多にいない。しかし、ここまで考えないと、本当の「是非の理知」、つまり理性を用い尽くすことはできない。好悪の感情で物事を決めることは悪いことではないし、そのことを責めるわけではないが、好悪の感情だけで判断していれば、必ずどこかで失敗する。好悪はどこまで行っても好き嫌いであり、是非のように100%の回答を導けないからだ。

私は理性の判断が好きなので、基本的に「是非推し」なのだけど、好悪の判断を尊重する人も、好悪と是非の判断の違いについて、よく心しておいていただければと思う。

請われなければ助けない

請われなければ助けない、とはどういったことか。

簡単に言ってしまえば、頼まれてもいないのに、誰かを助けてやるようなことはしない。ということだ。

問われなければ答えない、と同じとも言える。


私も以前は、問われなければ答えない、あるいは、請われなければ助けない、ような人物はケチくさいだけの人物で、能力を出し惜しみしているだけだろうと思っていた。

しかし、これもそうではない。
私は、微力ながら、失敗しそうな人にいろいろ助言をしてきたが、そのうちの何人かからは、嫌われるどころか、逆に逆恨みを受けたり、陰湿な嫌がらせをされることとなった。

まともなことを言う人間は、残念ながら世の中に受け容れられることはない。

例えば、「その船に乗っているといつか沈むから、すぐに乗り換えよ」と言ったとしよう。
凡人は「いやいや、あんたの言っていることは、信じられない。というかそもそも、あんたは私のことが気に入らないのか?私と同じ程度の人間であるのに、私よりも正しい認識を持っていて、この船に私の見抜けない穴を正しく認識することができるのか」と言うであろう。言わなくても心の中は、こういった感情「私は間違っていない、なぜ文句を言うのか」「私と同程度の人間が偉そうなことを言うな」という心で一杯になる。

だから、聖書にもあるではないか。「野犬に神聖な肉をやってはならない、豚に真珠をやってはならない」と。

人というものは、自分が正しいと思いたい。だから、自分のやっていること、あるいは、自分が「正しいと思い込んでいること」を、是が非でも正しいものとしようとする。
だから、自分の間違いをいつまでたっても探そうともしないどころか、あったらあったで隠蔽してしまう。
論語にもある。「過ちて改めざる、これを過ちと言う」と。

ただ、凡人といえども、実際に自分が困難に差し掛かったときだけは、賢人の言うことを信じるものだ。先の例えで言えば、船の底に水が漏れていることが目視できた時である。こういった、実際に取り返しのつかない失敗を被ってしまった「後」で、やはり賢人に頼るしか無いことにやっと気づく。

だから、このときだけは、「野犬でも神聖な肉を食べるし、豚でも真珠を大事にする」

だから言うのだ。「請われなければ助けないし、問われなければ答えない」と。

重要なことは、普段から、自分が凡人であり、野犬や豚であることをよく心に刻んでおくことだ。

このようにしておれば、賢人の重要な助言を聞き逃すこともない。
正しいことを判断する基準を自分に置いてはならない。
正しいことを判断する基準を自分に置いていれば、凡人には凡人の、野犬には野犬の、豚には豚の判断しかできないのだ。

いかに、自分を排して、正しい判断基準を自分の判断基準として持つかが重要なのだ。

とはいえ、それでも賢人は、この凡人や豚や野犬に、神聖な肉や真珠を与え、彼らを「正しい見解」に導こうとしているものだ。
しかし、いつの時代も、受け取る方に受け取るだけの心がないことによって、失敗と後悔だけが積み重なっていく。
なんと悲しいことであろうか。