好悪と是非について

あまり気付いている人はいないのだけど、人の判断基準は、主に「好悪の感情」と「是非の理知」の二つの要素により成り立っている。

好悪というのは、好きか嫌いか、好ましいか厭わしいのか、快いのか不快なのかなどと言ったもので、喜怒哀楽の四情に並ぶものである。これも、あんまりみんな気付いていないのだけど、実は感情の中で行動に大きく関与するのは、喜怒哀楽の四情よりも、好悪の感情のほうである。なぜか日本では、感情と言ったとき、好悪を含める人はほとんどおらず、喜怒哀楽の四情のことばかり言う。私も気がついていなかったのだけど、『荀子』には喜怒哀楽好悪、人にはこの六情がある、と書かれているのを読んで以来、そうに違いないことに気がついた。

次に是非というのは、正しいのか間違っているのか、そうなりそうなのかそうなりそうでないのか、良いのか悪いのか、と言ったものである。これは、『孟子』の四端にもあるように、人ならば誰でも持っている理性的判断を求める気持ちのことだ。これは、感情とは少し違う。というのも、1+1=2は、是で間違いないだろうけど、この正しさを求める気持ちは、感情とは明らかに違う。また、1+1=?と答えがわからない時、正しい答えを知りたいと思う気持ちがあるが、これは好奇心などとも少し違う。だから、正しさを求める気持ちは、理性であって、感情とはかなり様相の違うものなのだ。

これで言葉の定義はだいたい終わった。

次には、好悪と是非がどのように人の判断に影響を及ぼしているかを、カレーライスへの意見で考えてみよう。

例えば、カレーについて、

Aさん「ぼくはカレーライスの味が大好きです」
Bさん「みんなもカレーライス好きだし、私も好きです」
Cさん「カレーライスは、スパイス豊富で健康にも良いし、好きです」
Dさん「安倍首相が高級カレーライスを食べたという話を聞いて以来、カレーが嫌いです」

という4つの意見があったとき、ここに、「好悪」と「是非」の判断要素がカオス的に入り混じっていることに気がついていただけるだろうか。

Aさんは、恐らく純粋に「好悪」によってカレーを判断しているだろう。
Bさんは、一見すると「好悪」によってカレーを判断しているようだけど、「みんなの意見」を参考にしていることから察するに、「みんな好き⇒みんな好きなものは良いものに違いない⇒私も好き」という具合に、是非の判断が少なからず含まれていると思われる。
Cさんは、「健康に良い」という是非の判断が、少なからず好悪の感情にかなりの影響を与えていると思われる。
最後Dさんに至っては、「安倍首相」が嫌いなのだろうと思われるけど、なぜ安倍首相が嫌いなのかそもそも分からない。だから、好悪や是非がどのように入り混じっているのか、推測することができない。

ちなみに、私はカレーライスが好きである。

さて、またさらに難しいことには、例えばここで、誰かが「カレーライスは是か非か」と、司馬遷の「天道是か非か」ばりに(笑)問い詰めた時、これら四人はどう答えるだろう。

Aさん「カレーライスは非だ。炭水化物量の関係でカロリーが高すぎるのに食べすぎてしまう、というか好きだけど、毎日食べたら必ず太る」
Bさん「カレーライスは是です。みんな好きだから、是でしょう」
Cさん「カレーライスは是です。ただ、食べ過ぎれば非です」
Dさん「そもそも安倍首相は、公金の給料をもらっているくせに、高いカツカレーを食べて庶民を舐めている、それに、年金もアレだし、戦争法強行採決なんて…(以下略」
といった具合に、好悪の感情と、是非の理知を別に考える人もいれば、そうではなくて、好悪の感情をそのまま是非に適用する人もいるわけであるし、好悪の感情と是非の理知を混沌の中でゴチャゴチャにしてしまう人もいるわけである。

それで、何が言いたいかと言えば、このように、「好悪」と「是非」を明らかに説明すると、「好悪と是非をごっちゃにするやつはアホだなぁ」と思われるかもしれないが、実は、ほとんどの人が、「好悪」と「是非」をごっちゃにしているということである。

このことについては、上までの議論を思い出しながら、自分の明らかな心によって、自分を点検すれば、すぐに分かるはずなのだ。

それで、心に明らかさがある人ならば、どこかで、自分は是非と好悪をごっちゃにしていたことに気がついていただけるものと思うが、別に「これは自分の好悪だ」と割り切って、好悪に付き合っているうちはいいのだ。しかし、ここが重要なところなのだけど、人というものは、「是非の判断をできない場合に、好悪の感情を是非の判断とする」から問題が起こる。逆もまた然りで、「好悪の判断で満足している人に、是非の判断を押し付ける」から問題が起こる。

例えば、トランプ大統領が非だ、と言う人は多いだろう。しかし、なぜ非なのか、と問い詰めた時、「排外的なことをするから」と答えると、これは実はかなりの議論が必要なことだ。そもそも、なぜ「排外的なことをする」と非なのか?

または、最近だと、不倫した芸能人とかはクソ叩かれる、だから、その芸能人は人格を非とされた上に、皆から嫌われて、もう大変なことになってしまうが、なぜ不倫は非なのか?

俗に言う腐女子は、いわゆるホモやゲイが好きなのであろうが、ごくまれにこういった人に「同性愛は人類の敵だ」とか突っかかる人がいる。カレーを好きな人は気にならないのに、どうして腐女子の好みは気になるのか?

イスラム国のテロは、確かに非であるように思われる。しかし、イスラム国内部では、自爆テロをした人は英雄であり、皆から好かれるだろう。ならば、その自爆犯も、少なくともイスラム国の人からすると、好であり是であるのだ。なのになぜ、イスラム国のテロ犯を悪(にく)み非とする人がこれほど多いのか?

こんな細かいことまで考えている人は、そうそう滅多にいない。しかし、ここまで考えないと、本当の「是非の理知」、つまり理性を用い尽くすことはできない。好悪の感情で物事を決めることは悪いことではないし、そのことを責めるわけではないが、好悪の感情だけで判断していれば、必ずどこかで失敗する。好悪はどこまで行っても好き嫌いであり、是非のように100%の回答を導けないからだ。

私は理性の判断が好きなので、基本的に「是非推し」なのだけど、好悪の判断を尊重する人も、好悪と是非の判断の違いについて、よく心しておいていただければと思う。