請われなければ助けない

請われなければ助けない、とはどういったことか。

簡単に言ってしまえば、頼まれてもいないのに、誰かを助けてやるようなことはしない。ということだ。

問われなければ答えない、と同じとも言える。


私も以前は、問われなければ答えない、あるいは、請われなければ助けない、ような人物はケチくさいだけの人物で、能力を出し惜しみしているだけだろうと思っていた。

しかし、これもそうではない。
私は、微力ながら、失敗しそうな人にいろいろ助言をしてきたが、そのうちの何人かからは、嫌われるどころか、逆に逆恨みを受けたり、陰湿な嫌がらせをされることとなった。

まともなことを言う人間は、残念ながら世の中に受け容れられることはない。

例えば、「その船に乗っているといつか沈むから、すぐに乗り換えよ」と言ったとしよう。
凡人は「いやいや、あんたの言っていることは、信じられない。というかそもそも、あんたは私のことが気に入らないのか?私と同じ程度の人間であるのに、私よりも正しい認識を持っていて、この船に私の見抜けない穴を正しく認識することができるのか」と言うであろう。言わなくても心の中は、こういった感情「私は間違っていない、なぜ文句を言うのか」「私と同程度の人間が偉そうなことを言うな」という心で一杯になる。

だから、聖書にもあるではないか。「野犬に神聖な肉をやってはならない、豚に真珠をやってはならない」と。

人というものは、自分が正しいと思いたい。だから、自分のやっていること、あるいは、自分が「正しいと思い込んでいること」を、是が非でも正しいものとしようとする。
だから、自分の間違いをいつまでたっても探そうともしないどころか、あったらあったで隠蔽してしまう。
論語にもある。「過ちて改めざる、これを過ちと言う」と。

ただ、凡人といえども、実際に自分が困難に差し掛かったときだけは、賢人の言うことを信じるものだ。先の例えで言えば、船の底に水が漏れていることが目視できた時である。こういった、実際に取り返しのつかない失敗を被ってしまった「後」で、やはり賢人に頼るしか無いことにやっと気づく。

だから、このときだけは、「野犬でも神聖な肉を食べるし、豚でも真珠を大事にする」

だから言うのだ。「請われなければ助けないし、問われなければ答えない」と。

重要なことは、普段から、自分が凡人であり、野犬や豚であることをよく心に刻んでおくことだ。

このようにしておれば、賢人の重要な助言を聞き逃すこともない。
正しいことを判断する基準を自分に置いてはならない。
正しいことを判断する基準を自分に置いていれば、凡人には凡人の、野犬には野犬の、豚には豚の判断しかできないのだ。

いかに、自分を排して、正しい判断基準を自分の判断基準として持つかが重要なのだ。

とはいえ、それでも賢人は、この凡人や豚や野犬に、神聖な肉や真珠を与え、彼らを「正しい見解」に導こうとしているものだ。
しかし、いつの時代も、受け取る方に受け取るだけの心がないことによって、失敗と後悔だけが積み重なっていく。
なんと悲しいことであろうか。