206.荀子 現代語訳 哀公第三十一 一・二章

哀公第三十一

一章

 魯の哀公が孔子に質問した。「私は、私の国の士達と議論をして、彼らと一緒に国を治めたいと思っています。敢えて問いますが、どうやったら、こういった士達を選び取ることができるでしょうか。」

 孔子は答えた。「今の世に生まれているのに、古の道に志して、今の世の中で生きているのに古の服を着る。こういったことをしている者で、非の打ち所がない者というのはほとんど居りません。」

 哀公が言った。「そういったことならば、あの殷の時代の冠をかぶり、曲がった飾りのついた麻靴を履いて、巾の広い帯を着けて、そこに天子の命令を記すための笏を挟んでいる者は全て賢者なのか。」

 孔子は答えた。「必ずしもそうとは限りません。なぜなら、祭りのための服を着て祭りに参加する人は、礼を貴んでいるのでなくて、ただ祭りのごちそうにありつきたいと思っているだけかもしれません。けれども、質素な格好をして粥をすすっている者は、酒肉を貪りたいと思っていないことは確かです。今の世に生まれているのに、古の道に志して、今の世の中で生きているのに古の服を着る。こういったことをしている者で、非の打ち所がない者というのは、居ないことはありませんが、ほとんど居ないのです。」

 哀公が言った。「善し。」

二章

 孔子が言った。「人には、五儀(五つの形式)というものがあります。つまり、庸人、士、君子、賢人、大聖です。」

 哀公が言った。「では敢えて問いますが、庸人とはどんな人ですか。」

 孔子は答えた。「いわゆる庸人とは、口から善言を出すこともできないで心には一定の住処がなく、賢人や善士を選んで、自分の身を託して自分の憂いをなんとかするということも知らず、行動は一貫性がなくて務めるべきことを知らず、止まるべき時に止まることも知らず、日々に目先のことだけ選択をして貴ぶべきことを知らず、周りに従って流されるだけで心の帰るべきところも知らず、感情は正しいのだけれど、感情に従うばかりですぐに心を砕いてしまう。このようであるのなら、それが庸人(凡庸な人)でしょう。」

 哀公が言った。「善し。また敢えて問いますが、士とはどんな人ですか。」

 孔子は答えた。「いわゆる士とは、道に関する術を全て尽くすことはできなくとも必ずそれに従うところがあります。そして美しい善事を遍く知り行うことはできませんが必ずそこに処ろうとします。だから、知について多いことばかりを求めないで知っていることを詳しくすることに務め、言葉も多いことばかりを求めないで言うことを詳しくすることに務め、行いも老いことばかりを求めないで行いの寄る辺となるものを詳しくすることに務めます。だから、知としては間違いない既に知っていることだけを知り、言葉としては間違いない既に分かっていることだけを言い、行いは間違いない既に寄る辺となっていることだけに基づいています。これは例えるなら、自分の性や命や肌や皮膚を別のものと取り替えることができないようなものです。だから、いかに富貴となってもこの人を益すことはできず、いかに貧賤であってもこの人を損することはできません。このようであるのなら、それが士(道に志す人)でしょう。」

 哀公が言った。「善し。また敢えて問いますが、君子とはどんな人ですか。」

 孔子は答えた。「いわゆる君子とは、言葉はいつも忠信(まごころがあって真実に合致している)なのにそれを誇って心に徳があるとせず、仁義(思いやりと倫理に則った行動)が身についているのにそれを誇るような気配がなく、思慮は明らかで道理に達しているけれど誰かと言葉で争うことはありません。だから、ゆったりとしていていて、追いつけそうであるのに追いつくことのできない者が君子であります。」

 哀公が言った。「善し。また敢えて問いますが、賢人とはどんな人ですか。」

 孔子は答えた。「いわゆる賢人とは、行いが定規や墨縄にぴっしりと当たっているのに、それが根本の道理を傷つけるようなことがなく、言葉は天下の法となるのに相応しくて誰からも迫害されるようなことはなく、富は天下を所有するほどなのに誰かから怨まれるということもなく、天下に布施を行って貧しくなることを何とも思いません。このようであるならば、賢人と言うことができます。」

 哀公が言った。「善し。また敢えて問いますが、大聖とはどんな人ですか。」

 孔子は答えた。「いわゆる大聖とは、知は大道に通じていてどんな変化にも応じて行き詰まるということがなく、万物の性質や特質を知ってこれを弁えている者です。大道とは、万物を変化せて成就させる原因であって、性質や特質とは、実際にそうであるのかそうでないのかとその取捨選択を決めるための理論のことです。こういったわけで、この人の為す事業の大きいことは天地にも遍く、その明らかであることは日月よりもはっきりしていて、万物を総じて要となること風雨のようであります。行き届いて立派であることその事業を真似ることはできず、天の祠のようでその事業を知ることもできず、百姓たちはこの人が隣にいても気がつくことさえできません。このようであるならば、大聖と言うことができます。」

 哀公が言った。「善し。」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子の凄い所は、目標が高いのにその目標がはっきりしていることである。例えば、ここで言う大聖とは他の宗教などでは神や仏と言われるものと同義であり、大体の場合はそもそも人でないか、人であっても特別な扱いであることが多い。これに対して荀子儒学では、段階を追って、この神や仏と同義のものに至る道が示されているのである。また、高い目標をはっきりと設定することはとても難しいことだ。井の中の蛙大海を知らずと言うけれど、もしも、500mほどの高さの山にしか登ったことがない人が、いきなり8000mのエベレストに登ろうとしても、その人は登る登らない以前に、エベレストがどんな山かさえ、はっきりと想像することはできないし、準備をすることさえできないだろう。