205.荀子 現代語訳 法行第三十 五〜八章

五章

 曾子は言った。「一緒に旅などをしていて愛されないのならば、必ず自分が不仁だからである。親交があるのに敬われないのは、必ず自分に優れたことがないからである。貨財のことになったとき信じられないのなら、必ず自分に不信な点があるからである。この三つのことは、自分の身にあることなのに、どうして人を怨むことなどができようか。人を怨む者は行き詰まり、天を怨むものは何も知らない。これが自分にないのに諸々のことを返って人に求めるならば、それはなんと遠回りなことであろうか。」

六章

 南郭恵子が、子貢に質問した。「先生の同門には、どうして色々な方がいらっしゃるのでしょうか。」子貢は言った。「君子はただ自分の身を正して待つのです。だから来たいと思う人を拒むことはなく、去りたいと思う人についてはこれを引き止めません。それに良い医者のところには病人が多く、矯め木のそばには曲がった木が多くあるものです。こういったわけで門下生たちは雑然としているのです。」

七章

 孔子は言った。「君子には三つの恕(相手の身になってする思いやり)がある。君主が居てしっかりとお仕えしていなのに、臣下が居てこのように使えと求めるのならば、それは恕でない。親が居て子はそれに報いることができないのに、子が居て孝行を求めるのならば、それは恕ではない。兄が居てそこに敬がないのに、弟が居てその言葉を聴かせようとするならば、それは恕ではない。この三つの恕に明らかであるならば、身を端正に保つことができる。」

八章

 孔子は言った。「君子には三つの思慮があって、そのことについては必ず思いを馳せなければならない。若いのに学ばないのならば年をとっても能なしである。老いてから教えないのならば死んでから慕われることはない。有るのに施しをしないのならば困窮したとき与えられることはない。だから、このために君子は、若い時には成長した時のことを思って学び、老いては死んだ時のことを考えて教えることをして、有るときは困窮した時のことを考えて施しをするのだ。」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■今回は論語と関わりの深いところも多い。参考として前に書いたものをリンクしておく。
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120330/1333117667
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120228/1330436334
というか、特に前三章は、論語の記述をもとにして荀子が書き直したものか、あるいは、本来はこういった話だったものが、省略されて論語のような形式になったのかもしれない。

■八章については、論語には三思でなくて九思というものがある。また、佐藤一斎の言葉四録にはこれと非常に似た文がある。これを参考にして書いたのであろう。

■七章は絶妙な掛詞になっている。私の拙訳で伝わるかわからないが、どちらの立場にも恕が必要であることが表現されている。つまり、「忠義は臣下がするものであるが、君主が臣下にしたいと思わせるものである。孝行は子がするものであるが、親が子にしたいと思わせるものである。従順(善で和して従うこと)は弟がするものであるが、兄が弟にしたいと思わせるものである。」儒学は、いつからか曲解されて「目上の人を盲信すること」が主旨であると、思っている方も多い。しかし、それは浅解というものである。渋沢栄一論語と算盤」にも、「親孝行は、子がするものでなく、親がさせるもの」といった主旨の章がある。