113.荀子 現代語訳 君道第十二 九章

九章

 材人(才能のある人)。

 正直で素直で仕事をさぼらず任されたことをしっかりと果たし、計算は緻密で間違いを犯すようなことがないならば、これは役人の才能というものである。

 身が修まっていて端正で、法を尊んで自分の分限に慎み居て、偏った不正の心を起こすことがなく、自分の役目を守って仕事の責任を果たし、その役目の内容を増減することなく伝えて、仕事の項目が奪われることがないようならば、これは上級の役人の才能というものである。

 礼義を貴ぶことが君主を尊くするためであることを知り、士を好むことが名声を美しくすることであることを知り、民衆を愛することが国を安んずるためであることを知り、常の法があることが習俗を一つにするためであることを知り、賢者を尊んで能力者を使うことが功績を長ずるためであることを知り、根源である本を努めて末のことについては禁止することが財貨を増やすためであることを知り、下と小利を争わないことが全ての事についてうまく進ませるためであることを知り、制度を明らかにして物を測って実用に割り当てることが物事を停滞させないためであることを知るならば、これは大臣宰相補佐の才能である。

 もしも、今まで述べたような真の君道に及ぶことができなかったとしても、この三材の人を選んで役目を与えて後で困ることがないのならば、これを人主の道という。このようであるならば、自分の身が苦労するということはないのに、国は治まって功績が大きくなり名声も美しいものとされ、上ならば王者として何ら差支えなく下でも覇者となることができて、これこそが人の主たる者の要所というべきものである。

 仮に人の主たるものが、この三材の人を選ぶことができなくて、さらにこの道を歩むべきことも知らないならば、自分の権勢を卑しいものとして苦労ばかりで、目や耳の楽しみを退けて自分の身を粉にし、日を重ねて治を詳しく知り一日で細かいことも分別して、臣下と細かいことの思慮を競って、偏ることにうまくなることを極めようとするのと何も変わりがない。昔から今に至るまでの間に、このようにしていて乱れなかったものはない。これがいわゆる、見るべからざるを視て、聞くべからざるを聴いて、成すべからざるを為す、というもので、これこそそのことを言っているのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子で検索しようとすると、「荀子 三材」という項目が出るのだけど、これのことかと思った。簡単に言えば、適材適所というものだろう。ただし、この三材を見抜くこともなかなか難しいことである。もちろん、見抜くことに努めようと思っていれば見抜くことに近付くこともできるのであろうが。

論語顔淵第十二より「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日も己に克ち礼に復れば天下仁を帰(ゆる)す。仁を為すこと己に由る、人に由らんや。顔淵曰く、其の目を請ひ問う。子曰く、礼に非(あら)ざれば視ることなかれ、礼に非ざれば聴くことなかれ、礼に非ざれば言うことなかれ、礼に非ざれば動くことなかれ。顔淵曰く、回、不敏といえども、請うこの語を事とせん」▼高弟である顔淵がこの言葉を言われたのは、なんとも感慨深い。