文明と文化の違いについて

(二三年前の記事をまとめ直したので、微妙に一貫性がない内容になっている)

 まず、文化と文明と言うが、この語も結構曖昧であると思う。

 よって、今ここでは、文化を感性に依存するものとして、文明は理智に依存するものとする。

 文化とは例えば、アメリカのハリウッドであり、日本のアニメなどオタク文化であり、茶道であり、柔道であり、モーツァルトの楽曲でもある。

 次に文明とは、政治であり、戦争であり、経済であり、機械であり、相対性理論であり、ハイブリッド車であり、青色ダイオードでもある。

 この中間のものが、「文」であると思う。つまり言語だ。例えば徒然草は、優れた芸術的な文化作品であるとともに、当時の文明に哲学を加えた優れた文明作品でもあると思う。このように、文化と文明を定義して、色々な作品を検証すると面白いかも知れない。例えば、マルクス資本論は、文明:文化=19:1くらいかなぁ。ちょっと詳しくないので分からないけど、ダヴィンチの作品は、文明:文化=1:999のように見えるが実は、文明:文化=9:1かも知れない。

 私は、文化が苦手だ。文明の方は結構得意だと思う。今の国家としての文明は、まあ、間違っているかも知れないけど、なんというか嗅ぎ付けることはできる。しかし、アメリカのハリウッドが栄えた理由は皆目検討もつかない。また、日本のオタク文化についても同様だ。感性の鋭い人に言わせると、そういったことは「感じる」ことが肝要だそうだが、いまいち感じることができない。けど、それを補いたいという気持ちはあって、例えば、通勤の風景など、理智だけで見たらかなりつまらないものだ。しかし、感性でこれを見ようとすると、パッと全ての景色が変わったような印象を受けるほど普段と落差がある。けど、それを理智で理解しようとしてしまうので、結局なんか進展はない。だから、美しいものや醜いものに出会うと、「何故か」と理屈で考えようとしてしまうのだ。下手すると、美醜の感性を全く別の次元のところにおいて、それを評価してしまう。だから、我ながら、自分は味気なくてつまらない感じの人間に仕上がっていると思う。とまた理屈で考えてしまった。
 
 感学と理学、それぞれの弱点と利点について考えている時、感学と理学の面白い特性、決定的な個別性に気がついた。

 感学は、より多くのことを知ることができるが、それを厳密に確定することができず、理学は、それを厳密に確定することがききるが、多くのことを知ることができない。感学によって知り得たことには自信は持てないが、理学によって知り得たことには自信が持てる、しかしその反面、理学によって知り得ることは少ないが感学によって知り得ることは多い。といったところか。まあ、でも私は理学の長所側に考えが偏っているように思う。

  何か足らないと思っていたら、感学には早いという利点がある。直感的に何かを知り得るわけだから早い。ただ、やはり、信と正確さにおいて劣る。信を置き過ぎると、間違ったことをも信としてしまう可能性がある。