112.荀子 現代語訳 君道第十二 八章

八章

 塀の外は目で見ることができない。一里先のことは耳で聞くことができない。しかし、君主が守り司るところは、遠くは天下の果てで近くても国境であり、そうやすやすと知ることはできない。天下の変化と国境内の間で緩みが生じてかみ合わないようなことが起きていても、君主たる者がこれを知ろうともせず知るための手段もないならば、これこそ他から脅かされて行き詰ることの発端というものである。耳目で明らかにできることはこのように狭いのに、君主が守り司るところのことはこのように広いのである。その状況の中で知らないでいるということは、このように危険なことなのである。そうであるならば、君主はこれをどのように知るのだろうか。

 答えて曰く、話をするのが上手な側近こそが、君主のために遠いことも窺い知って多くのことをも把握する門戸であり窓なのである。早いうちに準備しないわけにはいかないだろう。だから、君主には、信頼することのできる話の上手な側近が居てこそやっとなんとかなるのである。この人の智恵は、物を正しく計測するのに十分であり、誠を致すこと、物を正しく定めるのに十分であって、少なくともこれらの条件が必要なのである。こういった人を国の備え(具)という。

 君主といえども休日をとって遊びに出かけたり体を休めたりすることも必要である。この上、病気や事故といったことも起きないとも限らない。こういったわけであるのに、国と言うものは、休むことのない源泉のように事物が湧いてくるのであって、これの一つにでも対処しなかったら混乱の発端となってしまう。だから、君主は独りだけではできないと言うのだ。そして、宰相補佐こそが君主のよりかかる机や杖であるのである。早く備えないというわけにはいかない。だから、君主には、必ず宰相補佐を任せることができる人が居て始めてなんとかなるのである。そして、その人とは、その徳が百姓を安心させるのに十分であり、智慮は万変に応対することができて、少なくともこれらの条件が必要なのである。こういった人を国の備えという。

 他の諸侯に隣接していれば、お互いに関わらないというわけにはいかない。そうではあるが、必ず親しむことができるとは限らない。だから、君主には、遠方まで出向いて意志を通じて疑いを決することのできる人が居てやっとなんとかなるのである。その弁説は煩いを解決するのに十分であり、その智慮は疑いを決するのに十分であり、その判断は難儀を退けるのに十分であり、私利で動かずに君主の意向に反することがなく、この上でさらに、悪い条件でも艱難を防いで、お社を保持するのに十分であって、少なくともこれらの条件が必要なのである。こういった人を国の備えという。

 だから、もそも君主に、話が上手で信頼することのできる側近者がいないのならこれを闇と言って、宰相補佐を任せることのできる者がいないのであればこれを独と言って、他の諸侯に使いする人が適任者でないのならこれを孤と言うのである。孤独にして闇ならこれを危と言って、国が存在していたとしても、昔の人はこれを国が滅んだことと同じだと言ったのである。詩経 大雅・文王篇に「才能があって 心平らかなる その士たち 文王はこうして安寧だ」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■国にしろ、会社にしろ、どんな組織でも、人がいなくなれば、それは組織ではなくなる。もしも、仮に、君主が嫉妬深くて欲深い人間で、賢い人に悪だくみを働いて、能力のある人の足を引っ張って、これらの人を騙して絞り取ることばかりを考えるのならば、それは既に国でも会社でも組織でもなくなってしまう。形として、それが国や会社や組織として残っていたとしても、何も前に進まないのである。その役目を果たさないのなら、それは既にそれで無くなっているのだ。