204.荀子 現代語訳 法行第三十 一〜四章

法行第三十

一章

 公輪は有名な細工職人であるけれど、定規に何か自分の細工を加えることはできない。それと同様に、聖人でも礼に何かを加えることはできない。礼というものは、皆がそれに則っていながら知ることなく、聖人はこれを自身の法としてしかもそれを知っている。

二章

 曾子が言った。身内の人を疎んじて外部の人に親しんではならない。身が不禅であるのに人を恨んではならない。刑罰が加わってから天に頼ってはならない。身内の人を疎んじて外部の人に親しむならば、これはなんとあべこべなことであろうか。身が不善であるのに人を怨むのならば、これはなんと遠回りなことであろうか。刑罰が加わることになってから天に頼るならば、これはなんと手遅れなことであろうか。詩経には、「細々と湧き出る水 塞ぐことも いなすこともせず 水車が壊れてから 水車を上部にして 仕事を失敗してから 大きなため息をつくならば それは何か益することがあろうか」とある。

三章

 曾子が病床に伏せていた時、息子の曾元が足元に居た。曾子は言った。「元よ、このことをしっかり覚えておけ。私はお前に語ろう。魚や亀は、深い所を住処としているのに、それでもまだ浅いからと穴を掘ってそこに住み、鳥は山をまだ低いとして巣をさらに上の方にかけるのだが、これら魚や亀や鳥が人に捕らえられてしまうのは、餌のせいである。だから、君子がかりそめにも一時の利のために義を損なうことがないのならば、恥辱が自分によってくることもないのだ。」

四章

 子貢が孔子に質問した。「君子が玉を貴んで、玉に似た石を賤しむ理由は何でしょうか。宝石は数が少なくて、宝石に似た石は多くあるからでしょうか。」

 孔子は言った。「ああ、子貢よ。本当にそう思っているのか。君子が、どうして多いからと言ってそれを賤しみ、少ないからといってそれを貴ぶことがあるだろうか。君子は、玉を徳と比べるのだ。温かみがあって光沢があるのは仁に似ている。模様があってそれに規則性があるの知に似ている。硬くて屈することがないのは義に似ている。表面が綺麗で汚れを寄せ付けないのは行いに似ている。折れることなく撓むこともないところは勇に似ている。キズができるとき全体的に同質なものができてくるのは情に似ている。これをたたいたならば、その音は清く澄んでいて遠くまで聞こえ、その音が止まれば響かなくなることは辞に似ている。だから、玉に似た石できらびやかで立派なものがあったとしても、本物の玉に及ぶことはないのだ。詩経に『君子を思えば 温かな玉のようだ』とあるのはこのことを言っているのだ。」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■三章で曾子が出ているが、論語に収録されているあの有名な「人の将に死せんとするその言や善し」という句も、曾子の発言である。(泰伯第八)また、曾子が病床にある描写「戦戦兢兢として深淵に臨むがごとく薄氷に踏むがごとし」は、そのすぐ後にもある。曾子は晩年、長いこと病床についていたのであろうか。