39.荀子 現代語訳 非相第五 七・八章

七章

 弁論をする際の方法(談説の術)

 おごそかな態度で臨み、誠心によって対峙し、自説を堅く守り持ち、たとえと比較によって納得させ、分別によって明らかにし、よろこばしく芳しい香を言葉に持たせて相手に送るようにし、言葉を宝とし、言葉を珍重し、言葉を貴んで、言葉を絶妙で偉大なものとする。このようであるならば、自説が受け入れられないということはなく、もし喜ばれなかったとしても人々は必ず貴んでくれる。(●矜荘にして以てこれにのぞみ、端誠にして以てこれに処し、堅強にして以てこれを持し、譬称して以てこれを喩し、分別して以てこれを明らかにし、和楽芳香にしてこれを送り、これを宝としこれを珍としこれを貴びこれを神とす)

 これを「その貴ぶべきことをしっかりと貴ぶ」と言う。古伝に「ただ君子のみその貴ぶべきことを貴ぶことができる」とあるのはこのことを言ったのである。

八章

 君子は必ず弁論を行う。ほとんどの人は、自分が善いと思っていることを言葉にすることを必ず好むのであるけれど、君子ほど甚だしくそれを好む者はいない。こういったことであるから、小人が弁論を行うと邪悪な言葉ばかりとなり、君子が弁論を行うと仁言となる。(●小人辯ずれば険を謂うも、君子辯ずれば仁を言う)もし、言葉にしても仁に中らないのなら、黙っている方がはるかにましであり、弁論するよりも言葉にならないでいた方がはるかにましである。

 言葉にして仁に中るのならば、言葉を好む者が上で、言葉を好まない者が下である。だから、仁言というものは大なのである。上に起こる仁言は下を導くためのものであり政令がこれに当たる。下に起こる仁言は上に忠(まごころ)を尽くすためのものであり諌止がこれに当たる。だから、君子が仁を行うのに飽きるということはない。志はこれを好んで、行いはこれに安んじて、これを言葉にすることを楽しむのである。だから、君子は必ず弁論を行う。(●君子の仁を行うや厭くことなし、志はこれを好み行はこれに安んじてこれを言わんことを楽うなり。故に君子は必ず辯ず)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■テキストで「言う」と訳されいる部分、書き下し文で「言」の字が使われている部分は、「言葉にする」と訳した。必ずしも、演説だけが言葉ではないし、口にすることだけが言葉でない、文字として文章に起こすことも言葉にするこであり、これも弁論をすることである。荀子は、人と直接話をして学問することを第一とし、書物によって学問することを第二としている。しかし、ここにこれだけの長編を残しているのだから、書物による方法を軽んじていたわけではない。プラトンのスタンスとも似ていると言える。というか、真理は古今東西いつでも変わらないのである。

論語・雍也第六より「子曰く、之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」