38.荀子 現代語訳 非相第五 四〜六章

四章

 だいたい、言葉が先王の道に合致していなくて、礼義の範疇からも外れているようならば、これのことを姦言(悪い言葉)と言う。たとえ詳細まで弁別された議論であったとしても、君子はこれを聴こうとはしない。(●凡そ言の先王に合わず礼義に順がわざるものはこれを姦言と謂う。辨ずると雖も君子は聴かず)

 先王の道を尊重していて、礼義に従い、学者に親しんでいるのに、この言葉にすることをしたいとも思わず、言葉を発することを好まず楽しまないのならば、これは誠の士とすることはできない。

 だから、君子の言葉ということについて、志としても仁を好んで、行いも仁に安んずるならば、仁について言葉にすることも楽しむのである。だから、君子は必ず弁論を行う。

 そもそも人は、自分が善いと思っていることを言葉にすることを好むのだけれども、君子ほど甚だしくそういしたいと思う者はいない。だから、人への贈り物において言葉を用いるならば、どんな宝石貴金属よりも貴重なのであり、人に見てもらうのに言葉を用いるならば、どんな装飾を施した書物よりも美しいのであり、人に聴いてもらうのに言葉を用いるならば、どんな音楽にもまして心を楽しませるのである。だから、君子は言葉を発することについて飽きるようなことはない。(●人に贈るに言を以てすれば金石珠玉よりも重く、人に観すに言を以てすれば彫刻文章よりも美しく、人に聴かしむるに言を以てすれば鐘鼓琴瑟よりも楽し)

 凡庸な人はこれと違い、質実で実益があることばかりを良しとして、文を飾ることに意を用いない。このために、死ぬまでの間、卑賤と凡庸から免れることができない。

 だから、易経・坤卦 六四に「袋の口を ひもで縛り 自分の口も への字に結ぶ 咎も受けなきゃ 栄誉も受けない」とあるのは、腐儒のことを言ったのである。

五章

 そもそも論説をすることが難しいのは、極めて高尚なことによって極めて下劣なことに遇うことにあるのであり、極めて治まっていることによって極めて乱れていることに接することにあるのである。そして、これらの隔たりは遠いものであるからには、当然すぐには接近することができない。(●凡そ説の難きは、至高を以て至卑に遇い至治を以て至乱に接することにして、未だ直ちには至るべからず)

 また、はるか遠いことについて語れば間違っているかもしれないという心配があり、卑近なことばかり語っているようであると凡庸であると思われる心配がある。善い論説とは、この両者の間にあって、遠いことを語っても誤ることがなく、卑近なことを語っても凡庸だと思われず、時勢に合わせて趣を変え、時代に合わせて抑揚を保ち、緩急伸屈が相手にぴったりと適合していて、それはあたかも、相手と時代に適合した堰や型を備えているかのようなのである。そして、つぶさに自分の言いたいことを述べるのであるが、そのことによって自分を傷つけるようなことはない。

六章

 君子は、自分を測る時には、直線を描くための墨縄のような厳しいものを用いて、人に交わるときには、やんわりと時間をかけて曲線を作る弓ためのようなものを用いる。(●君子の己を度るには則ち縄を以い、人に接わるには則ち弓だめを用う)

 自分を測るときに墨縄を用いるから天下の法則となることができ、人に交わるときに弓だめを用いるから寛容に大衆を容れて天下の大事を行うことができる。

 だから、君子は、賢者であるのに弱者を受け入れ、智者であるのに愚者を受け入れ、博識であるのに無学文盲を受け入れ、純粋であるのに雑多を受け入れることができる。(●君子は賢にして能く罷弱を容れ、知にして能く愚を容れ、博にして能く浅を容れ、粋にして能く雑を容る。夫れ是を兼術と謂う)

 こういったことを“兼術”という。(多いものによって少ないものを受け入れること、受け入れるとは、単に少ないものを包含するだけでなく、時には少ないものに包含されることも言う。兼ねるとは、兼務という言葉もあるようにお互いに共有するということである)

 詩経 大雅・常式篇に「遠い遠い あの徐の国でさえも 同じ天下を頂くは みんな天子の功績さ」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■五章には易経からの引用がある。私が儒学のうちで最も通じているのは、易経である。(独学だけど)

■六章は、韓非子の説難を思わせる。荀子を読んでから韓非子を読むと、または、韓非子を読んでから荀子を読むと、彼らの子弟愛が伝わってきてとても感慨深い。これはプラトンアリストテレスにも言えることである。