空の理解について

前から、私は、私自身が空と思われるものを理解していると主張してきた。

しかし、やはり理解できていなかったことが分かった。

私が理解している部分は、時間の概念を含めない場合だけであったのだ。

私の理解している部分だけだと、時間という概念との関わりが全く手落ちになっている。だが、逆にいえば、時間という概念を含めなければ、全ての形而上学論議・虚論について、ナーガルジュナと同じ受け答えをできると思う。

縁起=空というのは、「これがあるからあれがあり、あれがあるからこれがある」というただこれだけのことなのである。しかし、ただこれだけのことが、理解し納得することが大変に難しいのである。なぜなら、普通は、「それがそれとしてある」とか「私がいる」という妄執を離れることができないからだ。これは、言葉だけでなくて、感覚でも了解しないとならないことであって、そういった意味では、私ももちろん100%理解しているわけではない。ここで、「私」という概念を使っていることからもそれが分かる。しかし、少し精神を落ちつけて時間をかけることが許されるならば、この理論に沿った受け答え他ができると思う。

しかし、これだけだと、時間という概念について、何も触れることができていない。否むしろ、「時間という概念」があること自体がおかしいとも言える。というのも、竜樹は、三世門破といって、過去、現在、未来、既に去ったもの、今去りつつあるもの、これから去ろうとするものは、去らない。ということを言っているからである。このことに関して、竜樹は、「去る働き」という言葉を用いて、この三つの概念の根本的矛盾を指摘している。この理論だけなら理解することもできるのだけど、そうではなくて、これを感覚的に了承していないことが自分で分かるということである。だから、そもそも、「時間という概念」を感じている時点で空を全て理解していないことは明白であるとも言える。

今の私の縁起のイメージだと、現在という時においてのみ、「これがあるからあれがあり、あれがあるからこれがある」のであって、だから、“同時”にどちらもがあることとなどという表現が出てくるのである。そういった意味でも、この“同時”という時間の概念を離れていなくて、私の縁起への理解は万能でなく、限りなく薄い紙みたいなペラペラのものが無限に広がっているようなものでしかないのだ。そして、時間的に縁起を考えるときは、このペラペラで無限に広がったもの同志の相関関係を考えているに過ぎない。こういったわけだから、私はまだ空を全ては理解していない。

逆に言うと、現在の「時間という概念」を、どのようにかはわからないが超越することができれば、かなり空への理解が高まることになる。しかし、空を全て完全に理解し、しかも完全に体得するならば、それはニルヴァーナであるから、まあ、そもそも私には無理なことと言えるだろう。だが、そうとは分かっていても、知りたいのが人間でもあるんだろうなとは思う。

理論的には、歩き瞑想のような瞑想よりも、動かない瞑想をした方が、このことに関する理解を促せるであろうとは思う。動かないことは時間を感じやすいからである。さらに付記しておくと、この「時間という概念」を超越した先には、また新たな超越しなければならない何かがあるのかもしれない。