韓非子を読んでいて4

 韓非子を読んでいて、「(法)術」が何であるのか、少しずつだけど分かってきた。

 中央集権制度のような制度、つまり、官吏だけをしっかり治めて、民を直接は治めない制度も、「術」のひとつのようだ。当時としては画期的な概念だったのだろうなと思う。正しい法を作り、法の施行を厳守し、直接民を治め導くのでなく、法という中間物を設けることで民を治める制度、こういった「法治」も「術」の概念になるようだ。とにかく、「術」というのは、効率的な管理手法全般を指してそう言っていると思われる。その概念を簡単に示した話があって、「術がしっかりと行き届いているならば、君主がたとえ「うぶな乙女」でも国は立派に治まる。」とある。

 最近、私が考え始めたのは、現在の「民主制度」では君主が民自身のであるのだが、この状況に、どのように「術」の概念を当てはめるか、ということである。全ての「術」の概念が、しっかり今の制度・状況に当てはまるようなイメージが見えない。

2012.2.7


 韓非子を読んでいると、仁政というのは否定されている。なぜなら、仁政とは、功のない者を賞し、罪のある者を許すことであるからだ。このことは、理論的に納得できるし、そうであるべきだと納得できはするのだけど、どうもやはり、心の片隅で納得できない。この正しい理論と、今まで肯定してきた仁政への愛着が、自分の中でせめぎ合って、迷いになっている。そして、その迷いが、私の自信を揺らしている。

 例えば、飢饉の年に国庫を開いたとしよう。これは仁政であるが、功のない者を賞するという、法術を度外視した行為である。こういったことを行ってしまうと、民は「何もしなくても何とかしてもらえる」と、何もしなくなってしまう。また、仁政の見返りにしか働かなくなってしまって、常に施しをしなくてはならなくなる。これは、間違いなくそうなると思う。というか、これには自分の経験の裏打ちもある。

 真の仁政のためには、一時の仁を見過ごさねばならぬということか。論語にも「巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば大謀を乱る。」とある。まさにこのことかもしれない。

2012.3.3

 二心私学の士

 この言葉は、詭使第45にある言葉だ。そもそも、この詭使に書かれていること自体がすべて面白い。世の中で賢いとか、立派だと言われるような人を、頭ごなしにやっつけてしまうようなことが書かれている。読んでいて、この論説の屁理屈というか、えげつなさというか、そういったものにすっかり身震いしてしまった。

 だがそもそも、これは、この詭使に限ったことではない。韓非子の視点は、常に一定でなくて、常識や思い込みに捉われていない。そこが素晴らしい。あと、あり得ないような、常人には想像できないような、論駁の仕方をする。私はあまりというか、全く議論とかしないのだけど、もしも、韓非子をあと10回通読するならば、もはや、論戦で負けることは無くなるであろうと思う。それほどに、韓非子の論説はすごい。

 それで、二心私学の士とは、簡単に言うと吉田松陰とか、福沢諭吉とか、坂本竜馬とか、そういった人のことである。国家に二心を抱き、個人的な学問をする人のことである。私も、まあ、二心私学の士ということになる。

 確かに、国家の安泰という視点からすれば、これほどに厄介な士はいないだろう。

2012.3.9