18.学問のすすめ 現代語訳 四編 第五段落

第五段落

 このように言う人もあるかもしれない。政府はしばらくの間だけ一時の術策を用いて、人民の智徳が進むのを待ってから、人民自身によって文明の域に入るらせるようにすればいいのだと。この説は言うことはできるけれども行うことはできない。

 われらが日本全国の人民は、数千百年専制政治に苦しめられて、人々はその心に思うところのことを表に出すこともできずに、自分を欺いて安全を貪り、偽って罪を逃れ、欺詐術策は人生必携の備えとなって、不誠不実は日常の習慣となり、これを恥だと思う者もなくこれが正しくないのではないかと疑う者もなく、一身の廉恥心は既に地面を払っても出てこないほどである。このように、自分の身の恥の事すら忘れているのに、どうして国のことを考えるような余裕があるだろうか。

 そして、政府はこの悪い弊害をなんとかしようとしてますます威勢を張って、人民をおどしたり叱ったりして、無理に誠実にしようとして、かえってますます不信に導き、その状況はあたかも火で火を消そうとするような状況になっている。こうして遂には上下の間に大きな隔たりができてしまって、一種無形の気風と言うべきものができている。その気風はいわゆる「スピリット(supirit)」であって、簡単にこれをどうすることもできない。

 最近になって政府の形は大きく改まったのであるけれども、以前からの専制抑圧の気風は今なお残っている。人民も権利をやや得たようではあるけれども、その卑屈不信の気風は依然として昔と何も変わっていない。

 この気風は無形無体で、簡単に一個人のこんな場面だと示すことはできないけれども、この気風の実力は相当に強いもので、世間全体のことがらに顕われていることを見れば、明らかにそれが空虚なものでないことを知ることができる。

 試みに、その一例を挙げてみよう。現在の政府には人物が少ないというわけではない。個人的にその人たちの言葉や行いを評価するに、ほとんど皆が判断力、行動力共に優れた知見も広い士君子であり、私はこれを非難することができないばかりか、その言行は慕うべきものでさえある。また別の方向から言えば、平民と言っても全て皆が皆、無気無力の愚民ばかりというわけでなく、万に一人は公明誠実の良民というべき人もいる。

 そうであるけれど、この士君子、政府にて政治を取り行うとなると、そのやり方は私にとってあまり感心できないようなものがとても多くて、また先の良民も、政府に接するとたちまちにその節操を屈してしまって、欺詐術策でもって政府の役人を欺き、そのことを恥じているような者はない。

 この士君子にしてこの政治を行い、この良民にしてこの卑怯な行いに出るのはどうしてだろうか。あたかも、一つの体に頭が二つあるかのようである。つまり、個人的な立場では智者と言えるのに、政府の一員となると愚者としか思えない。また、個々人に散らばらかしておくと明るいのに、集めると暗くなる。政府というものとは智者が集まって、一人の愚かな人と同じ行いをするようなところと言える。どうして怪しまないでいられようか。

 つまるところ、こうなってしまう理由は、かの気風なるものに制せられてしまって、人々が自ずから一個人の考えを実行に移すことができないからではないか。明治維新以来、政府は、学術、法律、商売などを活発にしようとしているのに大した功績がないのも、その病の原因は恐らくここに在るであろう。

 こうして考えてみると、今一時の術を使ってその下民をうまく操り、その智徳が進むのを待つということは、威勢でもって人を文明に強いるようなことであるか、そうでなければ、欺いて善に帰そうという術策のどちらかということになる。

 政府が威勢を使えば人民も偽りでこれに応じて、政府が欺を使えば自民は表向きだけこれに従うようになる。これはとても上策と言うべきものではない。たとえその策がいくら巧みであっても、文明の事実に関しては益がないのは当然である。だから、世の文明を進めるためには、ただ政府の力のみに頼ってはならないのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■ここは、術(政府が人民を利用するようなやり方:韓非子の法術に近い概念)と独立の活計(民主主義)の根本的違いについてとても明確に示している部分と思う。つまり、政治は治めるものであると同時に導くものであるべきなのだ。この言葉では少し足りない。何と言ったらよいのだろう。以前、ペリクレスの民主政治について批判したのだけど、それが批判されるべきであるのかそうでないのかはここの部分にかかっているように思われる。▼そして、儒学の正しさを感じる。というのも、儒学においては、正心誠意修己治身によって、またそれを楽しむことによって、人民を感化することが理想とされているからである。これは、他にも言えることである。例えば、修己治身を普段から心がけている人が、いつも苦しんでいるようでは、誰もそれをまねしようとしない。むしろ、修己治身を志している人が、その道を楽しんでいる時、それを皆はまねしようとする。これは、四書に何度も書かれていることなのだけど、私は今日、始めてその意味が分かった。道は楽しまなければ何の意味もない。だが、それを楽しめる領域に至るのは難しいことなのかもしれないけれど。例えば、ダライラマに共感できるのは、ダライラマがその慈悲の道を楽しんでいることがあからさまに見て取れるからなのである。ダライラマがいつもしかめっ面をしていたら、全く共感できないだろう。

■冒頭の部分については、少し私の見解と違う。社会には、作られる側面と創り出されていく側面とがある。つまり、ここで言うと、独立の気風を育てるためにはそれに適した社会が必要であるし、また、逆にそれを創り出していく人の心が必要である。しかし、この人の心は社会がある程度用意されていないと育たない、しかし、こういった社会が育つためにはその人の心が必要なのである。これは一種の二律背反である。社会とは不可分にして全く逆の要素を持っているのである。まあ、福沢もこのことを分かっていて、これの創り出す側に訴えかけるためにこの学問のすすめを書いたのだろう。


要約

 最初のうちだけ政府が人民を導いて、軌道に乗ったら、人民が自発的に文明の域に入っていくようにすればいい。という意見もあるかもしれないが、現在の日本社会には動かし難い気風やスピリットがあることによって、この説が行われることはない。

 この気風とは、政府が人民を威で脅して詐術で欺き、人民は政府の目を逃れては偽り表向きだけ従うような風潮のことである。この気風が社会に及ぼしている影響を例えてみると、政府の立派な士君子も民間の博識な良民も、私事では立派で慕うべき行動をするのに、いざ公のこととなると、この気風に乗って恥知らずで道理知らずな行動を取るのである。

 だから、政府が人民を導こうとすると、結局のところ、政府が人民を威で脅すか詐術で欺くということになってしまう。こういったわけで、文明を発展するためには、政府頼っているだけではならないのである。