23.学問のすすめ 現代語訳 五編 第七段落

第七段落

 そもそも我が国の人民に気力が無いことの原因を考えてみると、数千百年の昔から、政府が全国の権柄を一手に握って、武備文学から工業商売に至るまで、また、社会の細かい事務までも、政府の関わらないものはなく、人民はただ政府がこうせよというところに向かって奔走していたからである。

 あたかも国は政府の私有物で、人民は国のお客様のようなものであった。既に宿なしのお客様になってこの国の中で飯を御馳走になっているだけであるからには、国を見ることもまるで宿屋を見るようなもので、いまだかつて深切に国のことを考えることもなく、また国を親切に思うような気力を表に出すようなこともなく、こうして遂には全国にこの気風を養い、この気風を作り成してしまっている。

 こればかりでなく、今日に至っては、なおのこと甚だしいこともある。おおよそ世の中のことは、進まないのならすなわち退いて、退かないものは必ず進む。進まず退かずで停滞するようなことはないのが道理である。今、日本の有様を見てみると、文明の形は進んでいるようであるけれども、文明の精神である人民の気力は日に退歩している。

 ためしにこれについて論じてみる。昔、足利徳川の政府においては、民を制御するのに力だけを用いて、人民が政府に服していたのは力が足らないからであった。力が足らないものは心服するわけではなく、ただこれを恐れて、うわべだけ服従しているようにするだけである。

 しかし、今の政府は力があるだけでなくて、その智恵もすこぶる敏捷で、かつて事のタイミングを外したことはない。明治維新後、まだ十年も経っていないのに、学校と兵備は改革され、鉄道電信の設備も整えられ、その他大きなコンクリート製の建物も作り、鉄橋を架けるなど、その決断の神速であることと、その成功の美であることに至っては、実に人の耳目を驚かすのに十分である。

 そうであるのだが、この学校兵備は政府の学校兵備であり、鉄道電信も政府の鉄道電信であり、建物や鉄橋も政府の建物や鉄橋である。人民はこれを見てどう思うのだろう。人は皆こう言うであろう、「政府はただ力があるだけでなくて、智まで兼ね備えている。これは自分の遠く及ぶところではない。政府は雲の上の存在で国を司り、自分は下でこれに頼るだけなのだ。国のことを心配するのはお上の仕事で責任だ。下賤な私の関わるところでない。」と。

 これをまとめて言うと、昔の政府は力だけを用いて、今の政府は力と智を用いている。昔の政府は民を御する術に乏しくて、今の政府はこれに富んでいる。昔の政府は民の力を挫いて、今の政府はその心までも奪っている。昔の政府は民のうわべだけを飾らせて、今の政府はこれを心から服従させている。昔の民は政府を見ること鬼のようであったが、今の民はこれを見ること神のようである。昔の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む。

 この明治維新の勢いでいろいろな悪弊を改めて、政府が事を起こしていくのなら、文明の形は備わっていくようであるけれども、人民の方では、さらにまさしく一段の気力を失って文明の精神は次第に衰えるばかりである。

 今、政府には常備の兵隊がある。本来なら人民は、これを認めて護国の兵と見なし、その盛んであることを祝って意気揚々たるべきであるのに、かえってこれを自分達をおどす道具だとして恐怖している。

 今、政府に学校鉄道があって、本来なら人民は、これを一国文明の印であるとして誇るべきであるのに、かえってこれを政府の恩恵だとして、ますますその恵みに頼ろうとしている。

 人民は、既に政府に対して、萎縮して身震いするような心なのである。どうしてそんな状態で外国と競って文明を争うようなことができるだろうか。

 だから言うのだ、人民に独立の気力が無かったのなら、いかに文明の形を作っても、それが無用の長物となるばかりか、かえって人民の心を萎縮させるようなものになるのだと。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■今という言葉が多いように感じた。これは福沢が慶応義塾大学の初正月の会合で発表したものらしいから、きっと力が入って、「今」という言葉を無意識かどうかわからないけど、多く使ったのだと思う。福沢も、特に自分のことに関しては「今」を大事に生きていたのではないか。

■鉄道や電気が公営的なのは、このころからのことなのだなと思った。確かに、そういった面ではドイツやロシアと似ているということかもしれない。まあ、そうして考えてみると、郵政民営化というのも、この明治維新の遺産の清算だったのだなという考え方もできる。

■今までの理論や言葉が随所で使われているように感じた。つまり、学問のすすめ初編から四編までをよく読直した上で、この発表文を書いたのだろう。


要約

 現在の日本国民には独立の気力がない原因を探ってみると、昔から今に至るまで、日本国はあたかも政府の所有物のようであり、人民はそこに居るお客様のようなものであった。こういったわけで、人民は国を思うこともそれほど親切ではなかった。さらにこの上、日本の現在の情勢として、文明の形だけなら進んでいるようではあるけれど、文明の精神たる人民の気力は日に日に退歩しているようである。

 なぜかというに、昔の政府は、武力で人民を脅していただけであるけれど、今の政府は、これに加えて人民の心までも奪ってしまっているからだ。というのも、今の政府は力があることもさることながら、鉄道電信を迅速に整備するなど、智まで兼ね備えているのである。これを見た人民は「政府は力ばかりか智まである。お国の事は政府に任せておけばいい」と思うのである。こうして、政府の手によって文明の形は進歩するのに、人民の独立の気力は衰える。

 このように、政府の力を恐れて、政府の智に頼っているようでは、外国と争うことなどできるはずがない。だから言うのだ、人民に独立の気力がないと、文明の形も無用の長物であるばかりでなく、かえって弊害を招くものであると。