パイドンを読んで1 プラトンの死生観は仏教に近い

 今日、プラトンパイドンを読み始めた。

 普通に面白い。

 ちなみに昨日までは、孟子を読み終わって、大学、中庸と読んでいた。

 プラトンの作品は、ソクラテスの言行録でなくて、プラトンソクラテスにしゃべらせているだけだ。などといったいろいろな学説があるようなのだけど、イデア論プラトン固有のものとすると、このパイドンソクラテスの言っていたこととは違うということになる。

 だが、私にとっては、そんなことはどうでも良いと言えば、どうでも良いことで、ソクラテスが用いていた哲学的方法を用いて、プラトンがこのパイドンを書いていることと、書かれていることが真実であるか、それに限りなく近いと思われること、この二点をもって、私は十分に満足できる。

 それで、興味深いのが内容である。ソクラテスが死刑に処せられる日に、これから迎える死について語るという設定であるのだけど、冒頭を読んだ時「ソクラテスは、これから向かうところを、浄土だと言っているのではないか」と思った。

 さらに驚くべきことに、輪廻についても書かれていて、それをあの対話法で論証するやりかたはこうだ。冷たいものから熱いものが生まれ、熱いものから冷たいものが生まれる。そして、長いものから短いものが生まれ、短いものから長いものが生まれる。このように、全てのものは、反対のものから反対のものが生まれる。では、生と死についても同じことが言えるはずである。つまり、死から生が出て、生から死が出る。だから、死んだ状態にあるものが、生まれる前の状態であり、生まれた状態の者は、死んだ状態になる。だから、必ず生まれる前には死んだものがあり、生まれるから死んだものがある。ということだ。(ちなみに、これは孫子にもほぼ同じ記述がある。乱は治から生じ、治は乱から生ずる云々)

 もうひとつ、面白いことは、「真の哲学者は死んだ状態にあるものだ」というのだ。これは想起論(人間は持っていたことを思い出すために学習し、その思い出すものがイデアであるという論)と併せて、孟子性善説とほとんど同じと思う。どうして死んだ状態なのかというと、体と魂をわけることからそれは始まる。まあ、説明しようと思うと、パイドンをまる写ししないとならないので、是非読んでいただきたい。とにかく、この「死んだ状態」は、仏の解脱と同じか、それとほぼ近いように思われる。

 それで、何が言いたいのかというと、「絶対に接点のあり得ない場所で同じことが言われている」ということである。さらに言うなれば、「その同じことが違う場所で人間に受け入れられて残されてきている」ということである。まあ、よほど頑迷な人でない限り、輪廻や理想の哲学や仏と言ったものを信じるしかないのではないか。