170.荀子 現代語訳 性悪第二十三 三章

三章

 そもそも、人が善をなそうとするのは、その性が悪であるからだ。薄いものは厚くなりたいと願い、狭いものは広くなりたいと願い、貧しいものは富みたいと願い、賤しいものは貴くなりたいと願い、かりそめにも中(偏っていないこと)にないことを自覚している者は、必ず中になりたいと願いこれを外に求めるものである。

 だから、富んでしまえば財を願うこともなく、貴ければ権勢を願うこともなく、かりそめにも中にあることを自覚している者はそれを外に求めることはない。このように考えてみれば、人が善をなしたいと思うのは、その性が悪であるためなのだ。

 今、人の性にそもそも礼義が備わっていない。だから、努め学んでこれを得ようとするのである。性は礼義を知らない。だから、思慮を重ねてこれを知ろうと求めるのである。そうであるならば、生まれたままであると、人は礼義もなくまた礼義も知らないわけである。

 人に礼義がないのなら乱れることとなり、礼義を知らなければ悖ることとなる。ということは、生まれたままであると悖乱が自分に在るということになる。このようにして考えてみれば、人の性が悪であることは明らかであり、その善というもの偽なのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

プラトンイデア論の展開に似ている。プラトンはその著パイドンで、長いことと短いことを引き合いに出して、長いものがあるから短いものがあるのであり、起きるという状態があるから寝ているという状態があるのであり、従って、生きているという状態があるから死んでいるという状態がある。そして、死んでいるのは、短い、寝ているというような一つの「状態」であるから、死ぬと全てがなくなるわけではない。としている。そうして、これらの「状態」を成しているものを「イデア」としたのである。