169.荀子 現代語訳 性悪第二十三 二章

二章

 質問者は尋ねた。人の性が悪であるならば、礼義はどのようにして生まれたのでしょうか。

 これに答えて、そもそも礼儀というものは、聖人の偽(作為)から生まれたのであり、本人の性から生まれたわけではないのだ。

 なぜなら、陶工は泥をこねて瓦を作る。そうであるならば、瓦は陶工の偽から生まれるのであって、陶工の性(生まれ持って天から与えられた性質)から生まれたわけではないからだ。また、職人は木を削って器を作る。そうであるならば、器は職人の偽から生まれるのであって、職人の性から生まれたわけではないからだ。

 聖人は、思慮を積み上げて、偽を繰り返して、そうやって礼義を生じて法度を起こしたのである。そうであるならば、礼義法度というものは、聖人の偽から生じているのであって、人の性から生じているわけではないのである。

 目が色を好んで、耳が声を好んで、口が味を好んで、心が利を好んで、骨体膚理が愉悦であることを好むようなこと、これらは全て人の情性から生じているものである。これらは、感じるだけでそれ自体が成り立ち、利に適った事であると分かってから生まれてくるものではない。これに対して、感じるだけでは成り立つことがなく、さらに必ず利に適った事であると分かってから成り立つもの、これを偽と言うのだ。

 これが性と偽の生じる所であって、性と偽が同じものではないというはっきりした徴(しるし)である。だから、聖人は、性を感化して偽を起こし、偽が起こって礼義が生まれ、礼義が生まれて法と度が制定した。そうであるならば、礼義法度というものは、聖人の生じたものである。

 こういったわけであるから、聖人であっても一般的な人と何ら変わらないものは、性なのである。此れに対して、一般的な人と聖人では雲泥の差があるものが、偽なのである。

 人が利を好んでそれを得ようとすることは、人の情性である。これを例えてみれば、ある人が財産を得てこれを分配する役目にあったとする。このときに、情性が利を好んでそれを得ようとするところに従ったとすると、兄弟ですらお互いに争って奪い合いをするであろう。これに対して、礼義の文理に同化しようとするならば、隣人にすら譲ることをするであろう。だから、情性に従えば兄弟も争い、礼義に同化しようとすれば隣人にも譲ろうとするのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■では、聖人の偽は、性から生まれたのではないか?というような疑問点が浮かび上がる。つまり、聖人には、そもそも「礼義文理」を作ろうとする性:天から与えられた性質があったのではないか?という疑問である。これ関する荀子の答えは、性のうちの最も強い欲求である「平穏に生きたいという欲求」が、「礼義文理」を作ろうとした。ということになる。(正名篇より)▼すると、それでは、性に「礼義文理」を作る元があったということであり、人の性は、極悪の真っ黒ではなくなるということになる。つまり、荀子性悪説の矛盾点を知りながら、性悪説を主張していたことになる。だから、荀子性悪説を主張した目的は、性悪説の正当性を押し通すためではなかったのだ。