堯・舜とは何だったのか

堯・舜・禹と言えば、中国の伝説的かつ理想を体現した王のことで、荀子の記述によると目が三つあったり、100歳を越えるまで生きていたらしいから、ほとんど想像上の人物であろうと思われる。史記の記述によると、禹に至っては、死んだ父の腹を裂いて生まれたらしい。

しかし、荀子に限らず、孔子孟子、ほとんどの儒者が、この堯・舜を最高の者としてあがめている。西郷隆盛などは、渡米組が絶賛するアメリカの治まった様子を聞いて「それは、堯・舜の世でごわすか?」と言ったらしい。

では、このシナの伝説的な王たちは一体何者なのであろうか?

それをひも解くカギが、当時のシナ全土を旅したと言う司馬遷の記述に隠れているように思われる。司馬遷はこのような記述をしている「堯や舜、さらにその先帝である黄帝のことを、長老たちが熱心に語るような郷里は、概してその風俗が良かった」と。

このようなことを考えていた折に、青空文庫で無料で読める「孔子」(和辻哲郎著)を読んで、とてもいろいろと合点がいく思いがした。その内容については、特に述べないが、とにかく合点できたのである。

そして、ここに書いているように、堯や舜に対する荀子のスタンスは、まとめるとこのようであった。「目が三つあったとか記述しているように実在の人間として認めてはいないが、ほとんど実在の人間と同じ扱いをして、さらにその上で隆(最高で最も貴ぶべき者)である聖王として、全ての基準としていた」

しかし、これ以上は明らかにしないでおこうと思う。それは、プラトンパイドロスソクラテスがこのようなことを語っているからだ(内容は趣旨だけ残して適当)「もしもぼくたちが、そうやって、ペガサスとかの伝説上の生き物のことや神話のことを、事実に引き当てて詮索していたら、他のことができなくなってしまう。だって、ペガサスのことを明らかにしたら、次はガーゴイルのことを考えないとならないし、それから今度は浦島太郎や桃太郎のことを考えないとならない。ぼくは、それはそれとして、素直に受け入れるのがいいのだと思う」

人間が普遍的に持つ心がcommon senseとして洗練してきたものが、神話であり、堯・舜であり、キリストであり、孔子であり、釈尊であり、ソクラテスであるということだろう。