荀子解題 現代語訳

青空文庫荀子解題というものがある。

恐らく、戦前の学者が書いたものではないかと思うが、wikiやその他の記述とも食い違いが見られ、現在の研究ではだいぶ変わっているかもしれない。荀子に興味のある方の参考になればと思う。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001577/files/52720_42679.html

現代語訳と言っても、旧字体、旧仮名遣いを改め、読みやすいように行間を開け、内容に応じて小題を設けた程度である。


著者 文學博士 服部宇之吉

1.荀子の遍歴

 荀子三十二編は、周の戦国時代最後の大儒であった荀況の著作である。最後の堯問篇の末尾にある短文は荀子自身のものではないが、その他は荀子の書いたものを門人などが少し整理したに過ぎないと思う。
 荀子のことを漢のある人は、孫卿と言ったこともあり、色々な説を言う人もあるのだけど、荀と孫は音がなまって変化したに過ぎないと思う。

 荀子が世の人から「卿」と呼ばれたことは、その学徳が高かったことももちろんあるであろうが、年齢もよほど高かったこともあるだろうと思う。塩鉄論毀学篇によれば、始皇帝が天下を統一する後まで生きていたようであり、史記本伝の文から考えると、斉の襄王の時に、本国である趙から斉に旅してきて、やがて諸学者のうちでも最も先輩として尊ばれたということであるので、結局荀子は秦始皇帝が皇帝となって後、間もなく百才くらいの高齢で死んだと考えてよいと思う。すなわち、周の戦国時代の最後の老儒であったわけである。

 荀子がどのような先生に学んだのかは詳しくなっていない。斉では重んぜられたのであるけど、それは学者としてのことで、政治上では関係していなかったと見える。斉以外の国にも旅していたようであるが、孔子孟子もどとらも行かなかった秦の国に入って、しかも、儒者のために大いに気を吐いている。後に弟子である李斯が始皇帝に仕へて宰相になり、またもう一人の門人である韓非も、始皇帝が未だ天下を統一していないときに懇願されて秦に入ったのであるが、この事と何らかの因果関係があるように思われる。ただ、今挙げた二人の弟子は、二人とも法治主義者に宗旨変えをして、荀子のように儒者でなかったこともまた一つの因縁がそこにあるのか。

 荀子はその後楚に向かい、有名な楚の宰相である春申君黄歇に用いられて、蘭陵という地の令、つまり長官となった。春申君が失脚した時に、荀子も職を失ったのであるが、長い間そこに居て居心地がよかったと見え、そのまま蘭陵に住むこととなった。多分この地で死んだと思われる。蘭陵の人は尊んで荀卿と言っていたから、名前や字名は伝わらなかったという。


2.荀子とその後の学問系統との関係

 荀子の学問体系が漢初の経学(四書五経などの経典に関する学問)と深い関係をもっていることは注意すべき事実である。漢初において、今日で言うところの儀礼を専門としていた中大戴と小戴の二派が用いた、儀礼の説明の資料とされる礼記の中には、荀子からとったものも少なくなかった。礼記は戦国時代から伝わっていたものが主流で、漢初に作ったものも極めて少しはあった。この二派が用いた礼記は一部は共通で、その他は各派特別のものを用いた。どちらの部分にも荀子から取ったものがある。小戴派で用いていた礼記が現在の四書五経の中にある礼記である。

 そうであるならば、荀子の学は今の礼記を通して永く後代まで影響したわけである。荀子孔子の博文約礼の主義にのっとって最も礼を重んじ、礼の研究においては造詣が甚だ深かった。その学説が後代の礼学の上に影響しているのは当然のことと思う。ただ、荀子の多くの門人のうち誰が特に礼に深く通じているのか、今は判らない。

 前に記した大小二戴は、いずれも孟子の弟子であり、孟子は蕭奮の弟子で、確かに荀子の系統の人ではある。経書に列記されている詩で現存しているものは、漢初において古文の学門系統でであった毛伝の経典である。漢初にはこの他にも今文の学問系統の詩経があり、その学派には、斉・魯・韓の三派があった。これら今文三派のうちで、魯・韓と古文毛伝は皆、荀子の説に基づいたものである。

 また春秋は、今文に公羊、穀梁の二派、古文に左氏があったのであるが、穀梁・左氏は皆、荀子を経て漢に伝わったものである。ただ、荀子自身の手がどれほど加わっているかは判らない。あるいは全く手を加えておらず忠実に伝達しただけであろうとも思われる。このように、色々の関係、深浅厚薄はあるものの、礼、詩、春秋の学問が漢初に復興し得たことに対して、荀卿は、他の学者ではとても及ぶことのできない関係を持っている。この伝授に関わった荀子の弟子、何人かの名前も判っている。


3.荀子の門人、韓非と李斯

 荀子の門人の中でも最も異彩を放っていたものは、先に挙げた韓非と李斯とである。二人共同時に荀子のところに入門したらしい。そうして、他日、韓非は本国の韓に帰り、李斯は秦に向かって遊説し客となっていたが、逐客令が出て追い払われそうなところを、上申書を提出して秦王の心を動かし、遂に用いられることとなった。その後、秦王が天下を統一するや丞相となった。

 荀子の学説と二人の主義との関係などは、今これを省略して、少しこの二人の弟子の主義についてだけ述べよう。李斯の著述というものはないが、始皇帝に仕えて事実としてしたことは、史記に見えている。それが韓非の意見とほとんど全く同じなのである。そうして、これは以前に秦に仕えていた商鞅の意見と一致しているものがある。

 その意見は簡単に言えば法治主義、法令至上主義、君主至上主義、愚民而治主義(民衆を愚かにして治める)などで、荀子が代表しているような、儒教徳治主義、道徳至上主義、民為重主義(民衆を重しと為す)、啓民而治主義(民衆を啓いて治める)などとは相反するものである。韓非と李斯の二人は、一時は荀子に学んだものの、当時の形勢を察して儒教に背いて法家の流れに足を投じたのであった。

 李斯の詩書を焚くという意見も韓非や商鞅が唱えていた意見で、始皇帝がこれを採用したのは自己の存在を根底から危うくする天命説を破棄して去り、そうして力によって立てた絶対専制主義を保護せんがためであった。韓非と李斯の二人を先王の罪人のように見て、その師であるという理由で荀子を攻撃する人もあるが、それは酷論というものである。


4.荀子という書物と性悪説

 荀子の書には、古来から長いこと注釈書が存在しなかった。唐の楊リョウ(にんべん+京)が初めてこれに注釈を付けた。これがすなわち、現在に伝わっているものである。邦人のものでは、久保愛荀子増註を推薦する。さらに、最近の支那人の著作では王先謙の荀子集解が善い。

 荀子性悪説で名高いが、孟子の言う性と荀子の言う性とは、その対象が違うことを知らなければならない。そもそも支那には、古来から、性という文字の意味が一様ではない。天地の性などといって天地の生、すなわち天地の生ずるところのものという意味に用いる他、天地の生じたものでことさら人についての動物的本能を性というかと思うと、また、その道徳的本能も性と言っている。こういったわけで、書経に節性という言葉があると、詩経には弥性という言葉がある。

 孟子性善説を主張したが、明らかに動物的本能が性であることを認めながら、「君子はこれを性と言わず」と言っている。他の語で言うと、倫理なり教育なり政治なり、おおよそ人の道、すなわち君子の道を論ずるには動物的本能のことは外に置いて、道徳的本能を性として立論することを明言しているのである。

 荀子は、これに反して動物的本能を性として論を立てた。だから、性悪説となった。人の性は悪であるがゆえに、礼を用いてこれを矯めて善に出るようにすることが必要である。この点はよく説明できるのであるが、どのようにして自己に反して自己を矯めようとする礼に従うことができるかという問いに対しては、荀子は大いに答えに窮した。色々と試みたがとうとう最後にカブトを脱いで、人に道徳的本能が有ることを認めないわけにはいかなくなり、性悪説の根底は動いてしまった。

 荀子という書物が、勧学篇に始まって堯問篇に終わるのは、丁度、現存している論語が学而篇に始まって堯曰篇に終わっているのと、形式がよく似ている。

 我が国で荀子の流れを汲んだ人は、物徂徠であろう。荀子が礼は先王之を製して人の性を矯めるとしたように、物子は道を聖人が製作したものとした。物子の説を推し窮めれば、道徳他律説になる。物子の門流には名教の上から避難される人が多かったのは、この思想によって罪がある。儒者の名を犯して、墨者の行いにも及ばないのは歎ずべきことである。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885