141.荀子 現代語訳 禮論第十九 一章

禮論第十九(禮は礼の旧字体、礼が何であるか、この旧字体の方がうまく象形していると思ったので、特にこの礼のことを明らかにする禮論では、敢えてこの禮という字を用いることにした)

一章

 禮はどのようにして起こったのだろうか?

 答えて、人は生まれながらにして欲を持っている。欲してそれを得ることができないなら求めないというわけにはいかない。求めて、その求める量に限りがなくその求める場所を限る境界(度量分界)もなかったとしたら、争いが起きないというわけにはいかない。そして、争えば乱れて、乱れれば困窮する。

 先王はこの乱れを嫌い憎んだ。この故に禮義の制度によってこれを分けて、そうして人の欲を養い人の求めるものを給って、欲があっても必ず物に困窮することがないようし、その上で、貪欲に屈してしまうことがないようにし、この両者を両立させて成長を促した。これが禮の起こったいわれである。

 この故に禮というものは、養うものであるのだ。焼き肉や白米や料理などは口を養うものであり、彫刻や刺繍や絵画などは目を養うものであり、太鼓や笛や琴などは耳を養うものであり、宮殿や布団や机や椅子などは体を養うものである。だから、禮というものは養であるのだ。

 君子はその養を得れば、今度はその別を好む。では別とは何なのか。別とは、貴賤に等級があり、長幼に差があり、貧富軽重にはそれに見合ったもの(称)があることである。

 この故に、天子が大路という専用の乗り物に乗るのは体を養うためであり、そばに臭い袋を乗せるのは鼻を養うためであり、車の横木を彫刻で飾るのは目を養うためであり、鈴の音が歩けば武象に中って走ればショウ護に中るのは耳を養うためである。九つの垂れ下がりのある竜の旗を立てるのは信を養うためであり、犀と虎を描き蛟を形取った馬の装飾具と絹に描かれた竜の覆いを使うのは威を養うためである。(ここまでは、天子の乗る馬車:大路についての話と思われる)だから、大路の馬は必ず調教ができて信用できるようになってから、そうしてこれに乗るのは安を養うためである。

 かの死をも厭わず節義を通すようなことは生を養うためであることを熟知して、かの費用を使うことは財を養うためであることを熟知して、かの恭しく敬って辞譲することが安を養うためであることを熟知して、かの禮義文理が情を養うためであることを熟知しなければならない。

 この故に、人は、かりそめにも生ばかりを見ていればそのような者は必ず死ぬこととなり、かりそめにも利のことばかりを見ていればそのような者には必ず害われることとなり、かりそめにも怠惰することだけを安楽とするのならこのような者は必ず危うくなり、かりそめにも情を満たすことばかりを楽しみとしているのならばこのような者は必ず亡びることとなる。

 だから、人は禮義に一であれば両端を同時に得ることができて、情性に一ならば両端とも喪失することとなる。この故に、儒者は人にこの両端を得させようとする者であり、墨者は人にこの両端を喪失させようとする者である。これが儒と墨との分かれである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子の禮が何であるか、ということは、古今の学者で意見が様々で、一定していないらしいのだけど、多くの意味があるということであると思う。中庸ちょうどよいところに導くもの、豊かさの基準を示すものが禮の一面であろうとは思う。