180.荀子 現代語訳 成相第二十五 三章

三章

 お願いだから、聖王の道にしっかりと向き合って、それを受け入れて欲しい。

 堯と舜は、賢者を尊んで自ずから天子の位を譲り、許由と善巻は義を重んじて利を軽んじた。彼らは、堯や舜が位を譲ったのであるがそれを拒んでおり、その行いははっきりとした明らかなものだった。堯は賢者にその天子の位を譲って、民のためにために尽くし、全てを愛してその利は氾濫するほどのものであり、徳の施しは均しく、上下をわきまえて治め、貴賎には等差があり、君臣には分は明らかとなった。

 堯は能力者に仕事を任せて、舜はその時に遭遇した。こうして、賢者が貴ばれ徳が推されて天下は治まった。いかに賢者が居たとしても、その賢者が偶然にも賢者の活躍できる世の中に生まれなければ、誰もこの賢者を知ることがない。堯は自身の息子に徳があると思わず、天子の位を舜に譲ったが、舜がこれを辞することはなかった。堯は舜に娘を二人嫁がせて多くの事業を舜に任した。舜はいかに立派な人物であったろうか、南を向いて政治を取り仕切り、万物が備わることとなった。

 舜は禹に天子の位を授けたのであるが、天下から、徳を尊ぶ風潮や賢者を推薦する秩序がなくなることはなかった。外では仇敵を避けるということはなく、内では親しい者におもねるということもなく、賢者に役職や位が与えられるようになった。

 堯には徳があった。心の力を労することで、剣や矛を使うまでもなく三苗氏は心服し、舜を田舎から推挙して、舜に全てを任して自らは休息した。后稷を得て五穀は実り、キは楽正となって鳥や獣でさえ心服し、契が司徒となって民衆は孝弟を知って、徳が有るということを尊んだ。

 禹には功績があった。洪水を抑え下し、民衆の害を避け除いて共工を追い払い、北の九河を切り開いて十二の運河に水が通じるようにし、三つの江に水を行き渡らせた。禹は土を敷いて天下を平らかなものとして、その身自らで民衆のために苦労を行い、伯益、コウ陶、横革、直成を得てその補佐とした。

 契玄王は昭明を生んで、最初は砥石という地に居たのであるが、後々は商の地に移り住み、この後、十四代後に生まれたのが天乙であり、これが殷の始祖である成湯である。湯王が抜擢する人材は尽く賢者であり、卞随とボウ光とに位を譲った。

 昔の聖王がたどった道をはっきりとすれば、その基本というものもはっきりと分かる。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■これは、中国の創世記みたいなもので、ほとんど伝説である。禹の切り開いた三江とは、黄河、長江、淮陰などのことであり、伝説的な話であることは一目瞭然と思う。

■この成相篇と次の賦篇は、詩のような秩序正しい文字列で書かれていることもあり、荀子以外の作であるか、あるいは当時の民謡や伝説的な話を荀子がまとめたものであるかもしれない。