181.荀子 現代語訳 成相第二十五 四章

四章

 言葉を連ねさせてほしい。

 世が乱れて善が忌み嫌われても、これを治めようともせず、過ちを隠しては賢者を病気のように扱い、いつまでたっても詐りごととこすずるいやり方を用いていれば、災いが少ないというわけにはいかない。これは患難以外の何物でもなかろう、そうであるのにこういったことをして、聖者や知者を用いることなく、愚か者とともに物事を謀り、前にある車が既にひっくり返っているのに、後続はそれを見て自身を改めることもしないなら、どうして気がつく時があるだろうか。

 覚悟を決めることなく、害や苦しみを知らず、惑い迷って指示することができなくなって上下の秩序は入れ替わり、まごころを上の人に伝えようともしなくって、耳と目を覆って門戸を塞いでしまう。門戸が塞がれてしまえば、大いに惑い迷うよりほかなく、ものごとは道理から悖って乱れ、闇の中でなくなってしまい、この迷妄に終極はない。

 是と非が入れ替わってしまい、おもねり徒党を組んで上を欺いては正直者を忌み嫌う。正直者はこの状況を忌み嫌って、心の節度を失ってしまい、この邪の中で進路を押し曲げて、あっちへ行ったりこっちへ行ったりその進む道を失ってしまうのだが、既に誰からも見放されてしまって、自分一人だけ自らを美とする。このような状況で、その正直者が事無きを得ることができるだろうか。

 事無きを得ることができなかったのに、それを教訓にして自身を戒めるということを知らないなら、後に必ず同じような災難に遭う。恨みごとを繰り返し念じて過ちを犯し、それを悔いることもないのなら、讒言の人が多く進むこととなって、言葉巧みに事実を覆して、虚偽の状態を生み出してしまう。

 人が詐りを行っていることに備えるということを知らず、お気に入りになろうと相い争って、賢者を病人のように扱うばかりか、お互いに忌み憎みあって、功績を妬んで賢者を陥れ、下は徒党を組んで上を覆い隠してしまう。上が覆い隠されれば、自身の補佐と権勢をも失ってしまうが、讒言のつまらない人ではそれをなんとか制することもできない。そして、結局は周のレイ王がカク公長父の事変で、テイの地に流されたようなことになってしまう。周の幽王やレイ王が失敗した理由は、正しい忠告を聴かずにまごころで仕えている人を迫害したからである。

 ああ、私という人間は、どうして時に恵まれることなく、このような乱世に生まれてしまったのか。まごころの言葉を届けてもそれが受け入れられることはなく、恐らくは伍子胥のように、不幸に遭遇することになるだろう。諫言は聴かれず、独鹿の剣で首をはねられて、川に捨てられてしまうのだ。しかし、こういった過去のことをよく観察して、そうして自分を戒めるのならば、治乱や是非についてもまた識ることができるだろう。ここでは、ものごとにしっかりと向き合ってそれを受け入れ、言葉を連ねてこの思いが分かるようにしてみた。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■いつの世の中もこんなものかもしれない。しかし、そのような世の中でも、その失敗を次につなげようとする部分が散見される。ここについては、さすが荀子だなぁと思う。

荀子の作であるとしたら、私的に楽しみや慰めで書いたもので、人に見せるものではなかったのかもしれない。