179.荀子 現代語訳 成相第二十五 二章

二章

 お願いだから、物事にしっかりと向き合ってそれを受け入れ、治法という方向について弁えて欲しい。至治の極みとは後王に帰ることである。慎到・墨テキ・李子・恵施など、百家の説は誠に詳しいものとは言えないし良いものでもない。治とは後王に帰ることにあるのだ。これを修めれば、吉であり得るところもある。君子は、このことを守って心を固く縛っているようなもので、衆人は二心し、讒言の人はこれを捨て去って外形のことばかり突き詰める。

 水が至って平らかであれば、そのそのたたずまいは端正で傾くこともない。心術がこのようであるならば聖人の象とも重なるようなる。心が専一で迷いがないのに権勢があり、真っ直ぐであるのにそれをたわめるための道具も用いるのならば、必ず天の営みに参加することもできる。世に王者が居ない時は、賢者が認められることもなく賢者は窮状に陥ることになる。暴虐の人がうまい肉を食って、仁人はまめがゆや重湯しか口にできない。礼楽も滅びてなくなってしまい、聖人は隠れて伏して墨家のやり方が行われる。

 治にたどり着くための最短の道とは、礼と刑である。君子は自身を修めて百姓は安寧する。徳を明らかにして刑罰については慎みを忘れず、国家は既に治まり四海は平らかとなる。治の志においては、権勢と財貨による富とを後ろにすることが重要である。君子はこのことについて誠の心を致し、好んでそういった事が後で伴ってくることを気長に待つ。こういったことに処すること敦く固く、奥底の深い所にこれをしまって、しっかりと遠いことにまで思いを致す。

 思いがこのように生粋できめ細やかなものであるならば志は栄え、好んでこれを専一にすることをすれば、神妙に至って成就することとなる。生粋できめ細やかな精神と心の神妙なるはたらきがお互いに影響しあって、これが真の精神となり、専一になって他と併存することがなくなれば聖人となれる。

 治の道とは、美しくて老い朽ちることがない。君子はこの治の道を自身の寄る辺として美しさを増し、誰にとっても好ましいものとなり、下は子弟を教え諭して、上は先祖に仕えて怠ることがない。ものごとにしかっかりと向き合ってそれを受け入れないということはなく、言葉を発すればつまづくこともない。君子がこれを自身の道とすれば、善で和してお互いに従う風潮が生まれ、全てのことが通達する。賢良を宗主として、不吉な災いのもとをふるい分け、天下は治まることとなる。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■前の章にも、春申君に関する記述があることや、ここも、どうも今までの荀子の文章構成とは違う感じがする。成相篇は、荀子の弟子か誰かがまとめたものではないか。