178.荀子 現代語訳 成相第二十五 一章

成相篇第二十五

※成は、成功、成就という言葉があるように、何かが成し遂げられることである。また、相は、木と目が合わせられた漢字で、漢和辞典を調べてみると、(木目)でも(目木)でも同じ意味である。だから、目で木をはっきりと捉え、相い対することでが相である。こういったわけで、国の首(かしら)となって国事に相い対する人のことを首相と言い、国の宰事を司る人のことを荀子の時代は宰相と言った。つまり、「成相」とは、ものごとに相い対することが成し遂げられたことであり、これを簡単に言葉にすると、「ものごとにしっかりと向き合ってそれを、木に相い対するようにはっきりと受け入れること」ということになる。

一章

 お願いだから、ものごとにしっかりと向き合ってそれを受け入れて欲しい。世の中の殃(わざわい)は、愚か者と道理に暗い者が、まことに愚者と闇者が、賢良の人を陥れることにある。君主に賢というものが無かったら、目の不自由な人に付き添いが居ないようなもので、どうして幽霊のように彷徨わないでいられようか。

 お願いだから、物事の基本や礎を心の中に敷き広げて欲しい。そして、慎んでこの話を聴きなさい。愚かであるのに、自らが専らにするならば事が治まるということはない。また、君主が自分より才能のある人を忌み嫌って、かりにもそういった人に勝とうとするならば、臣下が群れをなすほど多く居たとしても、誰も君主を諫める人はなく、必ず災いに遭遇することになる。そして、臣下の過ちを論ずるときは、必ず自分の施したことを顧みることだ。君主を尊いものとして国を安立したいのならば、賢者と義者を尚(とうと)べ。諫言(忠告の言葉)を拒み、失敗や欠点を飾って、愚かであるのに雷同することを最上のこととすれば、国には必ず禍が起こることになる。

 何を国の病と言うか。それは、国事であるはずのことに、個人の利害での判断が加わって私事が多いこと、また、臣下が個人的な意見や利害関係のつながりによって徒党を組んで、君主の周りを固めてしまうことである。賢者を遠ざけて讒言(でっちあげで人を貶める言葉)の人を近付ければ、忠信の人の力は閉塞して、君主自身の権勢さえ移ってしまうことになる。

 何を賢と言うか。それは、君臣の分限を明らかにして、上は君主を尊んで下は民衆を愛することである。主が誠心によって、この賢者の意見を聴くならば、天下は一つとなって全ての国がこちらに心服することとなるであろう。

 君主の災いとは、讒言の人がその思いを達し、賢者と能力者とが遁走して国が覆り、愚かなことによってさらに愚かなことを選んで、道理に暗いことによってさらに道理に暗い判断基準を選びとって、遂には桀王のようになってしまうことである。

 世の災いとは、賢者と能力者を妬み、飛廉のような悪代官が政治を取り仕切って、悪来のような性悪な人間が事を任せられ、志は低くて卑しいものとなって、庭園ばかりが大きなって、宮殿ばかりが立派になることである。周の武王は、この飛廉・悪来に怒りを感じて、牧野の地で戦をした。紂王の兵は向きを変えて自分の主であるはずの紂王を攻め、忠臣であった微子啓は降参した。武王は、それを善いこととして受け入れ、微子啓は後に宋の国に封ぜられてここに国を開くこととなった。

 世の衰えとは、讒言の人に原因があることである。殷の紂王は、諫言をした比干の胸を生きたままで裂いて箕子を幽閉した。だから、武王は讒言の人を誅殺することを計画し、太公望呂尚は軍隊を指揮して殷の民衆は武王たちに懐いて親しんだ。

 世の禍とは、賢者を忌み嫌うことである。呉の伍子胥は殺され、百里奚は国を転々とせざるを得なくなった。秦の穆公は百里奚に全てを任せて、秦は春秋の五覇とも並ぶ強国となり、六卿の官爵を任命できる程になった。

 世の愚とは、大儒を忌み嫌うことにある。孔子は、君主や他の同僚から拒まれて、その思いが通じることもなく苦しめられた。魯の展禽は三度も退けられたし、楚の春申君のやり方は用いられなくなってしまって、治世の基は尽く全てこぼれ落ちてしまった。

 お願いだから、物事の基本に基づきそれを受け入れて欲しい。そして、賢者のことを切に思うのだ。堯は万世の時間に渡ってことをはっきり知るであろうが、讒言の人は、究極的に考えることができず、自ずから険しい道を選んで足を引きずって歩き、傾いて倒れても賢者のことを疑う。物事に基本に基づくためには、必ず賢と罷の違いを見分けなければならない。周の文王や武王の道も、伏儀の辿った道と同じである。この道を寄る辺とする者は治まり、この道を寄る辺としない者は乱れる。このことに疑いの余地などあるだろうか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子の来歴は、詳しくなっていないが、間違いないものとして、「斉の国で学問の長に任命されていたこと」「その後、春申君の食客となり小さな町の長官となっていたこと」が挙げられている。荀子は、斉の国では讒言にあって遁走することとなり、春申君は荀子食客となってから後、失脚してしまった。荀子には、信陵君、孟嘗君、平原君などを論評する部分があるのだが、春申君について何か語ってる部分は、ここだけである。▼当時の礼には、「その国の大夫の悪口を言ってはならない」というものがったらしい。春申君は、他の戦国四君と違い、王族の出身では無かった。今で言うならば、成り上がりで大出世した田中角栄みたいな感じの人であったと思う。私が史書を読んで思う限りで、春申君は荀子の理想とするような君子とは思えない。▼また、荀子や、その弟子の韓非子の書物には、「賢者や忠臣の意見が通らないことへの憤り」について書かれている部分が多い。これは、当時、秦の策略で、金をばらまいて賄賂によって他国の臣下を買収されていたことと、関係が深かろうと思う。だから、秦以外の国で臣下となっていた賢良の士は、皆、荀子韓非子のような鬱積を感じていたことと思う。