177.荀子 現代語訳 君子第二十四 四章

四章

 論議が、聖王の法に則れば貴いことを知ることができ、義によって事を制定すれば利のあるところを知ることができる。その道筋を議論するとき、貴いところがあることを知っていれば、養うべきところをも知ることができる。また、事に当たって、利とすべきところがあることを知っていれば、労力や費用を費やすべきところをも知ることができる。

 この二つ(議論すべき正しい道筋と、事に当たって利を生み出すことのできる義)は、是非の本であり、得失の源である。だから、周の成王は、公の場で行われる議論であっても、その叔父である周公の意見に全て聴き従ったのであるし、それは成王が貴ぶべきことを知っていたからである。また、斉の桓公は、国事について宰相の管仲に任せないということはなかったが、それは桓公が利とすべきことを知っていたからである。呉には、伍子胥という賢臣が居たのに、彼を用いることができず、そうして国が遂に滅んでしまったのであるが、それは道に背いて賢という宝を失ってしまったのである。

 だから、聖を尊ぶ者は王となり、賢を貴ぶ者は覇となり、賢を敬う者はなんとか存立することができ、賢を侮る者は亡びるのであるし、こういったことは、今と昔でも変わらない不変の法則である。故に、賢を尊び能力者を用いて、貴賎を秩序立て、親しさに応じて分類し、長幼に序列があるならば、それが先王の道なのである。

 賢者を尊んで能力者を使えば、君主は尊くなり下の者は安心できる。貴賎に秩序があれば、政令が滞ることがない。親しさに応じた分類が適切ならば、施しが平等に行われて道理に悖るようなこともない。長幼に序列があって年配者が最終的に物事を決めるようになれば、事業が早く完成するようになって憩うことができる。

 つまり、仁とはこういったことを喜ぶことである。義とはこういったものを分かつものである。節とはこういったことのけじめをはっきりとさせ過不足を決めることである。また、忠とはこういったことに厚く親しみ従うことである。これらのことを全てしっかりと行うことができれば、備わったということになるが、備わっていることに誇ることなく、心を専一にして自ら善に進む。こういったことを聖と言うのだ。誇ることがない、だから天下の間で「これは自分しかできないのだ」と争うようなこともなくなって、結果として、天下の功績が善いものとして用いられることとなる。有っても有るとすることがない、だから、天下の貴人となることができる。詩経・曹風 尸鳩篇に「紳士淑女はマナーを守らないことはない けれどそのマナーが正しくあってこそこの四国を正すことができる」とあるのはこのことを言っているのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■この君子篇は、王制第九から強国第十六の荀子の中盤全てをまとめておさらいするような内容となっている。だから、ここに書かれていることのほとんどは、その詳しい説明について、今挙げた部分に書かれている。