176.荀子 現代語訳 君子第二十四 三章

三章

 もとより、刑罰が罪に対して相応なものであるならばそこには威があるが、罪と刑罰がちぐはぐとなれば侮られることとなる。爵祿が賢さに対して相応なものであるなら貴ばれるのであるが、爵祿と賢さがちぐはぐであれば賤しまれることとなる。

 昔は、刑罰が罪に過ぎるということもなかったし、爵祿が賢さを越えるということもなかった。だから、父を死刑に処していたとしてもその子を臣下としたし、兄を死刑に処していたとしてもその弟を臣下とした。刑罰が怒りによって罪に過ぎるということはなく、爵祿や報奨がその徳を越えることがなく、どっしりとした様子で各々が誠によって通じている。

 こういったわけであるから、善を為す者が勧められ、不善を為す者は阻まれ、刑罰も極めて省かれれて威は流れるように滞りなく行われ、政令は極めて明らかで民衆を変化させること神のようである。言い伝えに、「一人に慶賀のあるだけで 全ての民がこれに頼る」とあるのはこのことを言っているのだ。

 しかし、乱世ではこのようではない。刑罰は怒りによって罪に過ぎ、爵祿はえこひいきで徳を越え、一族まるごとで罪を論じ、世襲と世の評判だけで賢者を挙げることをする。だから、一人に罪があるだけで三族に至るまでの一族郎党を滅ぼされて、その徳が舜のような者が居たとしても連座を免れることができない。これが一族まるごとで罪を論じるということである。また、かつて先祖が賢者であると後の子孫は必ずもてはやされることになり、行いが暴君の桀王や紂王のような者であっても、比肩なき序列と権勢を得ることになる。これが世襲と世の評判だけで賢者を挙げるということである。

 一族まるごとで罪を論じ、世襲と世の評判だけで賢者を挙げるならば、乱れることがないようにしようとしたところで、乱れないはずがない。詩経・小雅 十月之交篇に「百の川が沸き立ち 山も塚も崩れて 高岸も谷となって 深淵さえ丘となる ああかなしいことか 今の人 どうしてこれをとどめようともしないのか」とあるのは、このことを言っているのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子は、血のつながりや世襲相続よりも、実際の能力や賢さを重んじていた。それはここに書かれている通りである。しかし、荀子は、全く血のつながりや世襲相続を否定していたわけではない。儒効篇では、血のつながりを重んじて、武王から成王に位が移行するように便宜を計った周公を絶賛している。また、儒学において、孝行などの血のつながりに基づいた親近関係が奨励されていることは言うまでもない。しかし、それはここにも書かれているように、位や役職から考えれば、二の次のことなのである。ここの他にも、賢さや能力が等しい時には、親近者から優先して位を与えるべきことや、年齢の高い人から優先して役職を与えるべきことを述べた部分もある。▼しかし、最も重要なことは、罪に相応した刑罰を制定することにあるのであるし、位に相応した賢さを見抜くことにあるのである。現代では世襲によって会社の経営が引き継がれることが多いが、その二代目や三代目の社長は、罪に相応しい刑罰を考える知識もないし、その人が本当に賢い人なのか見抜く知恵もない。例えば、罪に相応しい刑罰を考える知識がないから、功労のある社員を平気でリストラし、賢い人を見抜く知恵がないから、媚びへつらうのだけが上手い姦人を重用して、会社の経営自体を駄目にしてしまう。よく考えなければならない。▼また、こういった世襲の否定についての考えは、経済学の寵児ケインズ荀子と同じ考えであったらしい。以下、記憶によってケインズの言葉を抜粋「おおよそ、現在の経済を駄目にしているのは、資本家である。彼らは、封建時代の悪しき制度である世襲制度を、自分に都合がいいからという理由で、正当の制度として採用してしまった。初代の資本家は、いろいろな研究を重ねて、一代で資本の運用方法を確立したのであるから、その能力も確かなものである。しかし、それを世襲によって相続した二代目や三代目に至っては、資本を資源と考えず、資本のことを金利を生み出す何かとしか思っていないようである。そうして、資本を資源として用いることを怠って、そればかりか、自身は怠慢で豪奢な生活をしてそれで満足してしまっているのだ。」