175.荀子 現代語訳 君子第二十四 一・二章

一章

 天子に、対等な立場である妻がおらず、后(后は後れるという意味がある)しかいないのは、人として匹敵する者が居ないことを示している。

 四海のうちで、天子を客として迎える客礼がないのは、天子が唯一無二で最高の存在であるから、客として迎える者などは居ないことを示している。

 足で移動することはできるが付き添いの人が進んでからでないと進まず、口でしゃべることはできるが係の役人がいる時でないとしゃべらず、見ていないのに明らかで、聴くまでもなく聡く、何も言わなくても信があり、慮るまでもなく知があり、動かないで功があるのは、至備であることを示している。

 天子という者は、その権勢が極めて重く、体は極めて安逸に保ち、心は極めて愉快で、志は屈するところがなく、その尊いことは無上である。詩経・小雅 北山篇に「この全ての天の下 王の土でない所はなく 数多の砂の一粒まで 王の臣下でないことはない」とは、このことを言っているのだ。


二章

 聖王が上にあって、各自の分限と義が下に行われるならば、士大夫が邪に流れて淫らになるようなことはなく、百の役人も怠慢となることなくなる。民衆百姓もずるいことや奇怪なことをしなくなって、禁じられていることを敢えてするようなこともなくなる。天下は日の出を見るような明らかさで、盗みやこそ泥では富をなすことができないことを知り、良を傷つけたり害したりすれば長生きのできないことを知り、皆が社会で禁じられていることをすれば安泰で居ることはできないことを知る。

 そして、その道に依拠すれば人は自らの好む所を得て、その道に依拠しなければ必ず忌み嫌う所に遭遇する。こういったわけであるから、刑罰は限りなく必要がなくなって省かれ、その勢威が示されること水の流れるようで、姦事(こすずるい悪事)を働けばネズミのように隠れて逃げまわることはあっても、逃げ切ることができないことを当然のこととして受け止め、仮に罪を犯してもその罪を償って誠心に立ち返るのである。書経・康言告篇に「そもそもからして、人は自分で罪を得るのだ」とはこのことを言っているのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子の言う天子とは、何も具体的な個人のことではない。当時のイメージで、天子とは「実際に居るが見たことのない人」であったと思われる。なぜならば、現在のように映像の送受信機はなかったからである。日本の中でも、北の端から南の端まで行こうと思えば相当なことである。それが、シナのような広大な土地においても同様なことは言うまでもなく、映像の送受信機がなければ、天子、あるいは諸侯の王でさえ、その姿を見ることは稀であったであろう。しかし、当時は、そういった頂点の人が居たことで社会が治まっていたのであり、「そういった人は実は居ないのではないか」と皆が思い始めれば、社会は混乱に陥っていたと思われる。▼この上で、荀子は、はじめにそういった人が実際に居ることを強調し、その後に天子とは必ずしも人でないことを述べている。そもそも「見ていないのに明らかで、聴くまでもなく聡く、何も言わなくても信があり、慮るまでもなく知があり、動かないで功がある」とは、”人”にできることであろうか?▼ましてや、現在では封建主義(君主制)の矛盾が露呈して、その体制が崩され、民主主義の世となったのである。天子を特定の個人と考えず、抽象的な何かとして捉えようとすることが、荀子の「天子」を正しく理解することなのではないだろうか?