174.荀子 現代語訳 性悪第二十三 七〜十章

七章

 堯が舜に、人の情とはどんなものか、と問うた。

 舜が答えて言うには、人の情は甚だよろしくないものです。また、どうしてこんなわかりきったことをお尋ねになるのでしょうか。

 人は、妻子を得ればそちらに気を取られて親への孝行をおろそかにし、物欲が満たされてくると友に協力を願い出る必要も少なくなって友への信義をおろそかにし、爵祿が満たされてくると君主に尽くすことを怠ってその忠義がおろそかになります。

 人の情、人の情、甚だ善くない、ものではないか。どうしてこんな分かりきったことをお尋ねになるのか。しかし、賢者のみはこのようではありません。


八章

 聖人の智というものがあり、士君子の智というものがあり、小人の智というものがあり、役夫の智というものがある。

 多くの言葉を発するときも、それに文学としての趣きと共感できる法則があり、一日中議論していると、言っていることは千挙万変するのに、その共感できることと法則があることでは常に違わない一つの軸がある。これが聖人の智である。

 少し話をするときは必要なことだけに要約して余計なことをしゃべらず、論理の道筋があって法があり、それは縄をピンと張ったように秩序付けられているかのようである。これが士君子の智である。

 その言う時は人に諂い、その行うときは道理に悖り、その挙は後悔と咎事(とがごと)が多い。これが小人の智である。

 すぐに反応して機敏に言葉を発しているのに話に何のまとまりもなく、話題は幅広いが複雑で何の用も成さず、あるところには素早く反応してあるところにはこだわるのに、それが要点を得ていなくて、ものごとの是非を省みることもなく、ものごとの曲直を論ずることもなく、ただ単に自分の意見を押し通して勝とうとすることだけで、それが言葉を発する自分の意志となっている。これが役夫の智である。


九章

 上勇というものがある。中勇というものがある。下勇というものがある。

 天下が中道に適っているときは進んで自分の身を正し、先王の道を進んで行って自分の意志とし、上は乱世の君主には従うことなく、下は乱世の民と風俗を同じくすることなく、仁が在る所では貧窮することがないようにして仁の無い所では富貴となることがないようにし、天下に知られれば天下とともに仁を楽しむことを欲して、天下に知られなければどっしりと構えて天地の間に独立して畏れることがない。これが上勇である。

 そのたたずまいは恭しく志はつづましやかで、忠信を重要なものとして重んじ貨財を軽んじ、賢者を進んで推薦して賢者を尊び、不肖者には進んでこれを援助してそれで駄目なときは関わらないようにする。これが中勇である。

 自分の体をぞんざいにして貨を重んじ、禍を招くようなことをしては口でごまかしてかりそめにも難を逃れ、是非やそうであるのかそうでないのかという実際の情報を省みないで、人に勝つことだけを自分の意志とする。これが下勇である。


十章

(この章では荀子の時代の名弓や名馬の名が出るのだが、漢字が難しくて複写が困難である上、今の人が読んでもピンと来ないので、その部分は現代のものに置き換えることとする)

 与一の弓やウィリアムテルのボウガンは、昔の名弓である。けれども、調整するための道具が無かったら、その性能を保つことはできないだろう。

 関の孫六、江戸時代の正宗、アーサー王エクスカリバー関羽の飛龍偃月刀などは、昔の名剣である。けれども、砥石がなかったら、その刃先を鋭く保つこともできないし、人がそれを使わなかったら何かを切ることもできないだろう。

 オグリキャップディープインパクトトウカイテイオーなども、皆名馬である。けれども、前にはクツワと手綱で制御されて、後ろはムチで脅され、これに加えてさらに武豊の手綱さばきがあって、そうして初めてダービーで優勝することができる。

 ならば、人の性質が良くて心で理解することが多かったとしても、必ず賢師を求めてこれに師事し、良友を選んでこれを友とする。賢師を得てこれに師事すれば、聞くことは堯・舜・禹の聖王の道となる。また、良友を得てこれを友とすれば、見ることは忠信敬譲の行いとなる。自身が日々、仁に近づいているのに、それを自分で自覚していないとするならば、それは外の環境がそうさせているのである。

 これとは逆に、不善の人といつも居れば、疑わしくていい加減な欺きと偽りばかりを聞くこととなり、薄汚れた怠慢と淫らで邪なことばかりを見ることとなる。自身がいつ刑罰されてもおかしくないような状況であるのに、本人がそのことに気がついていないならば、それは外の環境がそうさせているのである。

 「その先生がどんな人か分からないなら、その先生の友を見よ、その君主がどんな人か分からないなら、その君主の左右を見よ」と言うことわざがある。これは、外の環境の力だけによるのだ、実に外の環境の力によるものだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■これで性悪篇が終わったことになる。十章にも、荀子が「人の性は極悪の真っ黒だ」とは思っていなかったことがはっきりと書かれている。原文では「それ人に性質の美にして心の辨知する者ありといえども」となっている。

■また性悪篇の最後にこれらの内容が配置されていることからも、荀子が個人の修養を励ますために性悪説を主張したことは明白である。つまり、性悪篇全体を見てみると、「人の性は悪である→また人の性は悪として平等に作られている→ならばそれを知って努力すれば誰でも聖人君子となれる→しかし、それは可能性の問題であって事実それができるかどうかは本人がやるかやらないかにかかっている→その上で、聖人君子になるための段階とその具体的方法はどんなものかを示す」、この八章、九章、十章が、聖人君子となるための段階とその具体的方法であることは明らかである。また、内容自体は、修身篇とほとんど同じである。そのほとんど同じものを、荀子が、再度この性悪篇に記したのは、他でもない、性悪篇が「誰でも聖人君子になれるのだから励みなさい」という目的で書かれたからである。