173.荀子 現代語訳 性悪第二十三 六章

六章

 道端の普通の人でも禹(伝説的な王)となれるとはどういったことか。

 答えて、そもそも禹が禹である理由は、仁義法正を修めているからである。そうであるのならば、仁義法正には、それをしっかりやるための道理がある。そしてまた、道端の普通の人全てに、仁義法正を知ることのできる質(生地)が備わっている。ということは、道端の普通の人でも禹となれることは明らかである。

 それとも、仁義法正をしっかりと知ることのできる道理はないとするのか。そうであるとすとすると、禹といえども仁義法正を知らず、仁義法正をしっかりとやることもできないだろう。また、道端の人には、そもそも仁義法正を知るための質(生地)がなく、仁義法正をしっかりと備えることもできないとするのか。そうであるとすると、道端の普通の人は、内では親子の義を知ることもできず、外では君臣の正を知ることもできないということになってしまう。

 しかし、実際にはそうではない。道端の普通の人でも、内では親子の義を知ることもできるし、外では君臣の正を知ることができる。ならば、それを知るための質(生地)と、それをしっかりと備えるための器とが、道端の普通の人にも既に在ることは明らかである。

 今、道端の普通の人に、その知るための質と、それをしかっかりと備えるための器とによって、仁義を知ることができそれをしっかりとやるための道理に基づくようにしたとする。そうすれば、この人も禹となれることは明らかである。

 今、道端の普通の人が、実際の行動を行って学問を修め、心を専らにして志を一つにし、思索と熟考を重ねて日にちを重ねてそれが長い期間にわたり、善を積んでやむことのないようにしたとしたら、神明に通じて天地に参与することもできる。だから、聖人という者も善を積んで致す所なのである。(●今、塗の人をして術を伏め学を為め、心を専らにして志を一つにし、思索熟察して日を加ねて久しきに県り、善を積みて息まざらしむれば、則ち神明に通じ天地に参わるべし。故に聖人なる者も人の善を積みて致る所なり。)

 では、聖とは、善を積んで致すことができるものということになる。そうであるのに、皆が善を積もうとしないのはどうしてか。

 これに答えると、それは、それをすることはできるけど、それをやろうとしていないだけなのだ。だから、小人は君子となることもできるのに敢えて君子となっていないだけで、君子は小人ともなれるけど敢えて小人とはなっていないだけなのである。小人と君子とで、小人になったり君子になったりとすることは、決してできないことではない。けれども、そのように小人になったり君子になったりしないのは、できるけれどもしていないだけなのである。

 だから、道端の普通の人でも禹となることはできる、けれども、それは直ちにその道端の人がしっかりと禹に成り切れるということを意味するものではない。禹になることができなかったとしても、禹となることができることとは全く関係のないことである。つまり、足は天下を遍く歩きまわることができる、けれど実際に天下を歩きまわった者はいない。職人、大工、農夫や商人は、お互いに仕事を入れ替わることができないわけではない、けれどもそのようにお互いに仕事を入れ替えれば、うまくこなすことはできないだろう。

 このようにして考えてみれば、することができるという可能性があっても、必ずそれをしっかりとやることができるとは限らないのである。だから、できなかったと言っても、可能性があったこととは全く関係ないのである。そうであるならば、できたできなかったという結果と、できるできないという可能性とは、大いに違ってかけ離れていることなのである。ならば、可能性としてはどのようにでもなれることは明らかである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子性悪説は、前から言っているように、「人の性は全て極悪の真っ黒だ」と主張するためのものではない。ここでだいぶ明らかになったと思うが、「人は誰でも聖人君子となることができる」という主張のための下地の理論でしかないのだ。だから、荀子性悪説を主張した真意とは、「誰でも聖人君子になれると励ます」ことにあったのだ。▼これは孟子性善説でも同じことが言える。つまり、孟子は「人の性は誰でも平等に善なのであるから、その性が善であることを信じて、聖人君子となれるように励みなさい」と主張していたのである。しかし、この結果、この孟子性善説に甘んじて「おれの性は善なのだから、自分の思った通りにして怠けていてもいいや」という意見が出始めた。そのことと荀子との関わりが深かったであろうことは、前の解説で明らかにした通りである。▼だから、荀子は、この邪説を正すために、孟軻を孟子(孟先生)と敬称で扱いながら、その性善説を批判した。つまり、荀子も、孟子が人を励ますために性善説を立てたことを理解して、その上で、性善説を排斥して性悪説を主張したのである。▼彼らにとって、人の性が善であっても悪であっても、それはどっちでもいいことであったであろう。私としてもそれはどっちでもいいことである。しかし、性善説に甘んじて怠けることは良いことではないし、性悪説を盲信して人を疑い過ぎることは善いことではない。この論点が性善説においても、性悪説においても、重要なことなのである。人の性が善であっても、人の性が悪であっても、本当に、それは議論の対象ともならない下らないことである。一番重要なことは、自分がうまく生きるためには、どちらの説を採用したらいいのか、それともどちらとも採用するのか、どちらとも採用しないのか、を各自で判断することなのである。