完結.210.荀子 現代語訳 堯問第三十二 四〜七章

四章

 こういった話がある。ソウ丘というところを守っていた人が、楚の宰相である孫叔敖に会見して言った。「私はこのように聞いたことがあります。宮仕えが長くなれば士からこれを妬まれ、爵祿が厚ければ民衆からこれを怨まれ、位が尊いと君主からこれを恨まれると。しかるに、今あなたは、この三つのことを所有しているわけですが、それなのに、罪を楚の士や民衆から得ていないのはどうしてですか。」

 孫叔敖が答えた。「私は三度も楚の宰相となったけれど心はいよいよ心を謙虚にして、爵祿が増えるごとに施しをいよいよ広く行って、位が尊くなるに従って礼をいよいよ恭しいものとした。こういったわけで、罪を楚の士や民衆から得ていないのだ。」

五章

 子貢が孔子に質問した。「私は人の下になるようにしていますが、それがどういったことか未だに分かりません。」

 孔子は答えた。「人の下となるとは土のようになるということだ。深く土を掘れば甘い水も出てきて、植えれば五穀が茂り、草木が育って禽獣も養われ、生きているものは土の上に立ち、死んだ者もこの中に入る。その功績は多いのだけどそれを徳とすることがない。人の下となることは土のようになることだ。」

六章

 虞の国は宮之奇を用いないで晋に併合され、莱の国は子馬を用いないで斉に併合され、紂王は王子比干の心臓を生きたままで裂いて武王に誅殺された。賢者に親しんで知者を用いることができないために、身は死して国は亡んでしまうのだ。

七章

 説を為す者の中には、孫卿(荀子)は孔子に及ばない、と言う者があるが、これはそうではない。荀子は乱世におびやかされて、厳しい刑にもおびやかされて、上には賢い君主なく、下は粗暴な秦の政治にさらされ、礼と義が行われることがなく、教化も成就することはなく、仁人は身をかがめて、天下は暗く中を彷徨い、普段の行いが立派な者は皆からそしられて、諸侯も次々に亡んでしまった。

 こういった患難の時代に際しては、知者が慮ることさえできず、能力ある人も治めることさえできず、賢者もその使いどころさえなくなってしまう。だから、君主は上の者は覆われしまって事実を見ることもできなくなり、賢人も拒まれて受け入れられることがない。こうなってしまえば、荀子が、聖人たろうという心を抱きながらも、狂人のように見られ、天下には愚かなふりをしてみせるより仕方なかった。詩経には、「既に明らかで 啓かれている そうして身を保つことができる」とあるが、それはこのことである。そして、これこそが名声が、表に広がることもなく、ともがらも少なく、その光輝きが広くなかった理由である。

 今の学者が、荀子の遺言とその残した教えを得るならば、天下の法や見本となるに充分であり、これの存するところは治まり、これの過ぎ去るところは教化される。荀子の善行を見てみればそれは孔子さえ及ばない。世間がしっかりと詳しくしないで荀子のことを聖人でないと言うのならば、それはなんたることだろうか。

 天下が治まらなかったのは、荀子がその時代に生まれなかったからなのだ。その徳は、堯や禹にも同等するのに、世間ではそれを知る者が少なく、方術が用いられなくて人から疑われるところとなってしまった。その知は至って明らかなものであり、道に従って行いを正し、こうして規範とするに充分なものとなった。

 ああ、なんと賢いことか。よろしく帝王となることもできたのに、天下はそれを知らず、桀や紂を善しとして賢良の人を殺す。比干は生きたままで心臓を裂かれ、孔子は匡の地で苦しめられ、接輿は世を避けて隠遁し、箕子は幽閉されて憔悴した。それなのに、田常は謀反を行って諸侯となり、呉の闔閭は兵が強いことに頼んで好き勝手をして、悪を為す者が福を得て、善き者には殃いがある。

 今、説を為している者は、その実を察することをしないで、表向きの名声だけを信じている。時世が同じでなかったら、誉れもそれに応じて変わってくるだろう。政治を執り行うことができなかったからと言って、どうしてそれで功績が無かったと言えようか。志が修まっていて、徳が厚いのならば、誰がその人を賢者でないと言うだろうか。

終わり


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■これでやっとひと通り終わった。けれど、区切りが付いたに過ぎない。

■読んでくださる方がいらっしゃったおかげで、何とか最後までできました。ありがとうございます。