38.学問のすすめ 現代語訳 八編 第六段落

第六段落

 今のは姦夫淫夫の話であるけれども、またここに妾の議論もある。世の中に生まれる男女の数はほぼ同じであるという道理である。西洋人の実験によると、男子の生まれる割合は女子の生まれる割合より多く、男子二十二人に対して女子二十人であるということだ。ならば、一人の男が二、三人の婦人を嫁にもらうことはもとより天の理に背くことは明白なことである。これを獣と言っても差支えはない。

 父が同じで母が同じ者を兄弟と名付けて、父母兄弟がともに住居するところが家と名付けられている。そうであるのに、兄弟、父は同じであるのに母が異なり、独り父だけが独立して母たちは群れを成している。これを人類の家と言うことはできるだろうか。家の字の意味を成していない。

 たとえその楼閣が立派で堂々としていても、その宮室(主に女性のいるところ)が美麗であったとしても、私の眼でこれを見れば人の家ではない、畜生の小屋と言わざるを得ない。妻と妾が群居していて家の中がよく和しているということは古今未だその例を聞いたことがない。妾と言っても人類の子である。一ときの欲のために人の子を獣のように使役して、一家の雰囲気を乱し子孫への教育に害を与え、わざわいばかり世に流して毒を後世に残すもの、どうしてこれを罪人と言わないでおけようか。罪人に違いないのである。

 数人の妾を養ってもその処置がよろしき所を得ているのなら人情を害することはない。と言う人もいる。これは先生自身の(夫子とあるが孔子のことか?出典は分からない)言った言葉である。もしも果たしてそれが本当であるならば、一人の女に何人かの男を養わせて、これを男妾と名付けて家族第二等身の位にしてみたらどうだろう。このようにしてよくその家を治めて人間交際の大義に少しも害がないならば、私の蝶々の理論もやめて口を閉ざして何も言わないでおこう。天下の男は、このことをよく自ら顧みるべきである。

 妾を養うのは家を絶やさないためであり、孟子の教えにある三つの不孝のうちでも、子供がないのが最大の不孝なのだと言う人もいる。私はこう答える。天の理に反するようなことは、孔子でも孟子でも遠慮せずに罪人と言ってよい。妻をめとって子を産まなかったらと言ってこれが大不孝とは何事か。責任逃れの言い訳にしてもあまりにも甚だしいのではないか。仮にも人心を備えた者であるのならば、誰が孟子の妄言を信じようか。

 そもそも、親不孝とは、子たる者が理に背いたことをして、親の身心に快くない思いをさせることを言うのである。もちろん、老人の心では孫の生まれることは喜ぶことではあるけれど、孫の誕生が遅いからと言ってこれをその子の不孝だと言うことはできない。試みに天下の父母に問うてみよう。子に良縁があって良い嫁をもらって、孫が生まれないとしてこれに怒り、その嫁をしかりつけその子に暴力をふるって、勘当をしようと思うか。世界が広いとは言っても、このような奇人の話は聞いたことがない。こういったことは虚しい論理で弁解をするほどの価値もない。人々は自らその心に問うて自らこれに答えるのみである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■一応儒学を擁護しておくが、儒学の基本はまごころ(誠)であって、常にまごころがあった上でどうするのか?という話なのである。だから、妾を持って良いとは言わないが、昔の一夫多妻が当たり前の世の中では、子供がないことに親が嘆き悲しんでいるのなら、その気持ちをくみ取って、妾を取ることもしても良い。と言っているのである。そのように、やむを得ない事情があって迷っている人に対してだけ、救いの言葉として、どちらが良いのかと孔子孟子が指針を示しているわけであって、決して誰でも妾をとっても良いと言っているわけではない。ただ、その言葉の前提を取らず、つまり、まごころを放置して、その言葉の表面上の意味だけで、自分の欲心から起こる行動を肯定しようとする行為が最も下劣で親不孝と言うべきなのである。