168.荀子 現代語訳 性悪第二十三 一章-後

 孟子は、人が学ぶのは、その性が善であるからだと言うけれども、これはそうではない。この考え方は、人の性を知ることができずに、人の性と偽との分別について詳察していないものだと言える。

 そもそも、性というものは、天から帰せられたものであり、学ぶことはできないし、利に適った事とすることはできないものである。これに対して、礼義というものは、聖人の生じたものであり、人が学ぶことができるものであり、利に適った事とすることができるものである。学ぶこともできず、利に適った事とすることもできないもので、人の内にあるものを性と言う。これが性と偽との分別である。

 今、人の性の一つである目は見ることができ、同じく性の一つである耳は聞くことができる。目に入ってくる明らかなことは目から離れることはなく、耳から入ってくるはっきりしたことは耳から離れることはなく、目は明で耳は聡である。目や耳がこれ以上聡明になることはないのだから、学ぶことができないということは明らかである。

 孟子は、今、人の性は善であるけれども、皆が性を喪失しているために悪があるのだと言うけれども、こういった理論は過っていると言いたい。今、人の性がたとえ善であったとしても、人は生まれつきのままであると、その元の状態から離れていき、その資質を必ず失ってしまうものである。このように、放おって置くと善を失うとするならば、人の性が悪であることは明らかである。

 いわゆる性善とは、その生まれついた状態を離れなければそれを美として、その生まれ持った資質を離れなければそれを利とするものである。こういったことを前提にものを考えると、目が目に入ってくることを明らかなこととして離れることがなく、耳が耳に入ってくることをはっきりしたこととして離れることがないように、生まれつきの美があるならば、人は入ってきたものを受け入れるだけで、心の善を養えることになってしまう。

 また、人の性は、飢えれば食べることを欲して、寒ければ暖まることを欲して、疲れれば休むことを欲するのであり、これは何ともしがたい人の性情である。そうであるのに、今、人が飢えていて、仮に食べ物を見ても敢えて先に食べようとしないならば、それは譲る所があろうとするからである。疲れていても敢えて休もうとしないのならば、それの代償を得ようとするからである。

 子が父に譲り弟が兄に譲ることと、子が父に代わり弟が兄に代わること、この二つの行いは、皆、性に反して情に悖ることである。しかし、それと同時に、孝子の道であり、礼義の文理なのである。だから、性情に従えば辞譲することはなく、辞譲すれば性情に悖ることとなる。このように考えてみれば、人の性が悪であることは明らかであり、その善というものが偽であることが分かる。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■ここに、「孟子」の性善説が出てきたが、孟子という部分は原文でも「孟子」と書かれている。孟子とは、中国語で「孟先生」という意味である。だから、論語に出てくる孔丘も孔子と言われる。だから、ここでは、孟子、つまり、孟軻のことを、荀子が「孟先生」と敬称で呼んでいることになる。これに対して、荀子は、非子十二子篇第六で、孟子のことを孟軻と呼び捨てで書き付けている。こういった違いがどうして現れるのだろうか、荀子性悪説の真意を読み取るために、重要なことだと考えられる。