167.荀子 現代語訳 性悪第二十三 一章-前

性悪第二十三

一章

 人の性(生まれ持っての性質)は悪なのであって善というものは人の為すものである。(●人の性は悪にしてその善なる者は偽なり。)

 今、人の性は生まれながらにして利を好むところがある。そして人はこの性に従う。だから、争奪が生じて辞譲(譲り合って遠慮すること)が亡くなってしまう。

 人の性は生まれながらにして何かを妬み忌み嫌うところがある。そうして人はこの性に従う。だから、残賊(善を損ねて傷つけること)が生じて忠信(まごころや事実と心の一致)が亡くなってしまう。

 人の性は生まれながらにして耳目の欲によって声色を好むところがある。そうして人はこの性に従う。だから、淫乱(淫らに乱れること)が生じて礼義文理(守るべき規範や法と発達するべき文化や文明)が亡くなってしまう。

 そうであるならば、人が性に従って感情の赴くままに行動をするならば、必ず、争奪という形で人に相対して、適切な度を越えて行動して道理を乱すこととなり、暴に帰することとなる。だから、師や法によって感化されることと礼と義の道が必要なのである。人は、これらの条件があって初めて、辞譲という形で人に相対して、適切な度を守って行動して道理に適うことができ、治に帰することができる。このようにして、人の性について観察してみれば、人の性が悪であることは明らかであり、その善というものが人の為す偽りであることが分かる。

 だから、曲がって使い物にならない木は、ため木したり蒸したりする矯正があって、そうして初めてまっすぐな使い道のある木になるのであるし、なまくら刀も砥石で研いで、そうして初めて鋭くなるのである。

 今、人の性は悪なのであり、師と法があって、そうして初めて正しくなり、礼と義があってそうして初めて治まることとなる。今、人に師と法がなかったのならば、偏り陰険なことばかりして正しくあることがなく、礼と義がなかったのならば、道理に悖る行動をして社会秩序を乱すことばかりして、治まるということはあり得ない。

 昔、聖王が、「人の性は悪であるのに、これをそのまま放任すれば、偏険で正しくなることがなく、悖乱で治まることがない」と思い、この理由のために礼義を発案して法度を制定し、そうすることで人の性情を矯め整えてこれを正し、そうすることによって人の情性を漸化してこれを導いたのである。これらは全て治を芽生えさせ道と適合するためのものであった。

 今の人は、師と法に自分を同化させ、文学を積んで、礼と義を拠り所とする人を君子と言って、情性を放縦にして、思いつきのその場しのぎで安心して、礼と義に違う人を小人と言う。このようにして、これらのことを観察してみれば、人の性が悪であることは明らかであり、その善というものが人の為す偽りであることが分かる。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子性悪説は、孟子性善説と対比された形で流布している関係で、多くの人が性悪説荀子に対していろいろなバイアスを持っていると思う。また、人にはそもそも、良い面もあれば悪い面もあるのであり、それを荀子が知らなかったはずがない。だから、荀子性悪説を唱えたのは、「人間の本性は真っ黒の極悪だ」ということを訴えるためではない。そのあたりの荀子の真意について、この原典を読み進めていただければ、わかってくると思う。また、正名篇の後半とも関係が深いことにも気がついていただければ、と思う。

■「人の性は悪にしてその善なるものは偽なり」これが、荀子性悪説を一貫する最も象徴的な言葉である。偽とは、「いつわり」とも読むが、その字義は、人の為すこと・作為という意味である。だから、普段、われわれが使う「偽:いつわり」とは、「真意には違って行動する、本心とは違ったことをしたり言ったりする」ということである。つまり、「真意や本心」に対する「偽:いつわり」という意味で、この偽という言葉を使っているのである。これに対して、荀子は、「性:人の本性」に対する「偽:いつわり」という意味で、この言葉を使っている。そして、性を悪であると定義しているのである。だから、悪に対する「偽:いつわり:作為:人の為すこと」が善である。というのが、この「人の性は悪にしてその善なるものは偽なり」という文章の意味ということになる。