166.荀子 現代語訳 正名第二十二 七章-後

 また、試しに、さらに深いところに隠れて察することが困難なものについても観てみよう。

 心の中で理を軽んじる者は、必ず外の物を重んじている者であり、外の物を重んじているのなら、心は憂え患うことになる。行いが理から離れれば、必ず外の状態は自分にとって危うい状況となり、外の状況が危うくなれば、当然に心の中は憂いでいっぱいになる。

 そうして、心の中が憂いでいっぱいになれば、口に肉を放り込んでもその味さえ分からず、耳に最高の音楽が入ってきてもそれを知ることができず、目前に美しい彫刻があったとしてもそれが何かも分からず、軽くて温かい着物を着て温かい寝床で寝ていたとしても体が安まることはない。だから、万物の美を受けたとしても、それを快く思うことができない。

 もし仮に、ほんの束の間の間だけ、それらを快く思うことができたとしても、完全にこの憂いから離れることなどできない。こういったわけで、万物の美を受けていても盛んに憂えることとなり、万物の利を所有していたとしても盛んに害があるのである。こういった者は、本当に物を求めるということができるだろうか。生を養うことができるだろうか。寿を育むことができるだろうか。

 こういったわけで、その欲を養いたいと思いながらその情はますます放縦になり、その生を養いたいと思いながらその形体はますます危うくなり、その楽しみを養いたいと思いながらますますその心を攻め、その名声を養いたいと思いながらますますその行いを乱すこととなる。

 こういった者は、候に封ぜられて君と称していたとしてもかの盗賊と異なることなく、立派な車に乗って冠を頂いていたとしても足ることがない貧者と何も異なることはない。こういったことを自分を物から使役される者にすると言うのだ。(●夫れ是れを己を以て物の役と為すと謂うなり)

 これに反して、心が平愉であるならば、そこに色気がなくても目を養うことができ、声を聞くまでもなく耳を養うことができ、精進料理や粗食だけで口を養うことができ、粗末な衣服と着物だけで体を養うことができ、狭い部屋でアシのすだれにワラの敷物を敷いて机を置いただけで姿を養うことができる。だから、万物の美がなくても楽しみ養うことができて、威勢のある位がなくても名を養うことができる。

 このようにして天下に関与しているのならば、天下のためにすることが多くて、個人的に楽しむということは少なくなる。これを己を重くして物を使役すると言うのだ。(●夫れ是れを己を重くして物を役すと謂うなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■全く荀子の言う通りだ。誰か反論できる人が居るだろうか?

■なんとか、この一年で、荀子を正名篇まで現代語訳することができた。ちなみに、岩波文庫版にも現代語訳があるが、ここにある現代語訳は書き下し文のみを見て、あとは私の言葉で翻訳したものである。岩波文庫版との違いは読み比べていただけると分かると思う。