172.荀子 現代語訳 性悪第二十三 五章

五章

 質問者は尋ねた。礼義積偽というものは人の性以外の何物でもなく、そのために、聖人はこれをうまく生じることができたのだ、と。

 これに答えて、それはそうではない。かの陶工は、土をこねて瓦を生み出す。そうであるならば、土を瓦とすることが陶工の性であろうだろうか、いやそんなことはない。また、職人は木を削って器を生み出す。そうであるならば、木を器にするのは職人の性であるだろうか、これもそんなはずはない。ならば、聖人と礼義の関係についても、例えて言えば、陶工が土をこねて瓦を作るのと何も変わらないのである。これらのことが正しいとすると、礼義積偽という者を、どうして人の本性と言うことができるだろうか。

 そもそも人の性というものは、聖王である堯や禹と、暴君の桀や大泥棒の盗跖の間でも、比較してみれば全く同じものであり、君子と小人でも性は同じ一つのものなのである。今、礼義積偽を人の性とするのか、そうしてしまえば、どうして堯や禹を貴ぶことができようか。君子をどのようにして貴ぶと言うのだろうか。

 そもそも、堯や禹、君子を貴ぶ理由は、性を化してしっかりと偽を起こし、偽が起きて礼義を生じていることにあるのだ。そして、聖人と礼義積偽との関係は、陶工が土をこねて瓦を生み出すようなものである。このようにして考えてみれば、礼義積偽というものがどうして人の性であろうか。

 桀や盗跖、小人を卑しむ理由は、性に従って情の赴くままに行動し、思いつきの行き当たりばったりで安心して、貪利争奪することにあるのである。だから、人の性が悪であることは明らかであり、その善というものは偽なのである。

 天は、曾子閔子騫や孝已をひいきして私愛し衆人を疎んじたわけではない。そうであるのに、曾子閔子騫や孝已だけが、実際に親孝行としての行いも厚くて、親孝行としての名が高いのはどうしてだろうか。それは、礼義を極めたからであるのだ。

 天は、斉や魯の民衆をひいきして私愛し、秦の人を疎んじたわけではない。そうであるのに、秦の人が親子の義や夫婦の別について、斉や魯の孝共と敬文に及ばないのはどうしてか。それは、秦の人が、情性に従って思いつきの行き当たりばったりで安心して、礼義をゆるがせにしているからである。どうしてその性が異なっていると言えるだろうか。(●豈に其の性異ならんや)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■前回の解説で孟子荀子の関係について、明らかにした。今回は、孟子性善説がどのようなものであったか、明らかにしたいと思う。「孟子」で性善説について詳しく書かれている部分は、「告子章句上」である。最初から読むと、荀子と同じように、うまく例えを出して、人の性が善であると主張している。多くの人が混乱してしまうであろうから、ここではそれを出さない。よって、混乱しないであろう部分から、代表的に孟子の主張を代表している部分について抜粋しておく。

孟子・告子章句上・六章より 

公都子が言った。『告子によると、「性は善でも不善でもない、白紙のようなものだ」ということです。

また、ある人は、「性は善をすることもあるし、不善をすることもある。こういったわけで、聖王が居るときは民衆も善を好んで、暴君のときは民衆も悪を為す」と主張します。

他にも、「性が善である人も居れば、不善である人もいる。だから、瞬とコソウは親子であるにも関わらず、瞬は聖王となり、コソウはその瞬を殺そうとする悪人であった。周王朝を滅ぼした桀王と、微子啓や王子比干は、兄弟や近い親戚という関係にも関わらず、彼らは桀王の暴政を止めようとしたし、桀王は彼らを殺しまった。これは性善の人とそうでない人が居るからだ」という主張もあります。

けれども、先生は、「人の性は善である」と言います。ということは、これらの主張は全て間違っているということでしょうか』

孟子が答えて言った。『それらのことは確かにそうであるが、それでも人の情性は善を為すことができる。こういったことを性善と言うのだ。不善をするようなことについて、その性に全ての罪がわるわけではない。

惻隠の心(自分以外のものをかわいそうだと哀れに思い、それを助けたいと思う気持ち)を人は皆持っている。
羞悪の心(恥ずかしいと思って恥を得ることを忌み嫌う気持ち)を人は皆持っている。
恭敬の心(自分以外のものに対して敬いや畏れや遠慮を抱く気持ち)を人は皆持っている。
是非の心(正しいことを正しいとして間違ったことを間違ったこととし、それを受け入れる気持ち)を人は皆持っている。

惻隠の心は仁であり、羞悪の心は義であり、恭敬の心は礼であり、是非の心は智である。

仁義礼智は外から自分を飾っているものではない。これが最初から自分に有るのに、それをしっかりと感じて思うことができないだけなのだ。だから、求めればこれを得ることができ、捨ててしまえばこれを失うと言える。また、善悪を比べて、善の方がいいに決まっているのに、これを勘違いしてしまう者が居るのも、その備わっている才能を発揮することができていないだけなのだ。

詩経に「天が人々を生んだ 何かあれば法則がある 民が性に従えば この美徳を好むのだ」とあるが、孔子は、この詩を作った人は道を知っているとおっしゃった。なぜなら、何かあれば法則がある、とすると、「民衆が性に従うとはこの美徳を好むこと」になるからだ。』

孟子にも、荀子同様、この性善説を主張した「理由」がある。その理由は、この後半の部分を読むとなんとなく分かったいただけると思う。そして、荀子孟子性善説に対抗して性悪説を主張した理由も少し分かるのではないか、と思う。

■最後の二節に注目していただくと、荀子が、性悪説を訴えた理由は、「人の性が極悪の真っ黒なもの」であるということ自体を訴えるためでなかったことが、少し明らかになったと思う。荀子は、性悪説を通して、「人の性が平等に作られていること」が言いたかったのである。そして、その先にある結果、その先に現実として現れる現象は、実は前に紹介した「孟子性善説」と同じものなのである。