37.学問のすすめ 現代語訳 八編 第五段落

第五段落

 政府が強大で小民を制圧するという議論は、前篇までで触れてきたことなのでここではこれを略し、人間男女の間についてこの(儒学的思想の)ことについて言おう。

 そもそも世の中に生まれたからには、男も人であり女も人である。この世の中に必要不可欠なものは何かという視点からすると、天下には一日も男がいないというわけにもいかないし女がいないというわけにもいかない。その(子孫を増やし社会を形成するという)効能からすれば、男女は同様であるのだけど、異なっているところがあって、これは男が強くて女が弱いことだ。大の男の力で女と闘うならば、必ずこれに勝つことができるだろう。すなわちこれが、男と女の同じでないところである。

 今世間を見てみると、力ずくで人のものを奪うか、または人を辱める者があるのならば、これを罪人と名付けて刑罰を行うことがある。そうであるのに、家の中では公然と人を辱め、かつてこれが咎められたことがないということはどういったことだろうか。

 女大学という本には、婦人の道に三従の道というものがあり、幼き時は父母に従い、嫁いるときは夫に従い、老いては子に従うべし、と書かれている。幼い時に父母に従うのはもっともな話ではあるのだけど、嫁に行ってから夫に従うとは一体どういった意味で従うということなのだろうか、その従う様を問わないわけにはいかない。

 女大学の文中には、亭主が酒を飲み女郎に耽り妻を罵り子を叱って放蕩淫乱を尽したとしても、婦人はこれに従って、この淫夫を天のように敬い尊んで顔色を良くし、悦ばしい言葉でこれに意見せよと書かれているだけで、その先のことは書かれていない。とすると、この教えの要点は、淫夫でも姦夫でも既に自分の夫と約束したからには、いかなる恥辱を蒙ったとしてもこれに従わなければならず、ただ心にもないような良い顔色をしてこれに悪いことをしないよう柔らかに進言する権利しか婦人は持っていないことになる。そして、その進言を受け入れるか受け入れないかは淫夫の心次第であって、すなわち淫夫の心が天命を受けたと自ら改めるよりほかに手段はないのである。

 仏書には罪業深き女人という言葉がある。実にこの言葉をその言葉通りに受け取るならば、女は生まれながらにして大罪を犯した罪人に他ならない。

 また一方で、婦人を責めることは甚だしくて、女大学には婦人の七法というのがあり、嫁に行った女が淫乱であった場合はその家を去らなければならない、と明らかにその裁決が記されている。男のためにはおおいに便利なことである。だが、あまりに片落ちな教えではないだろうか。つまるところ、これは、男は強くて女は弱いということによって、腕の力をもとにして男女上下の名分を立てた教えに過ぎない。

感想及び考察
■これは、あまりにも極端な話であると思う。現在では、この昔からの反動であろうか、女性の権利が訴えられるあまりに、女性の特権の方が多く生まれてきているように思う。

■福沢は、女性と男性の違いを腕の力のみとしたけど、これも違う。その研究成果は、生理学として多く発表されているのでそちらを参考にされたい。世間では女性の社会進出度などと言うものがあって、要職にどれだけ女性が就いているかでその国の男女平等度を測るというものがあるのだけど、これも少し的外れな調査と思う。そもそも、先天的な要素(力以外の部分でも)で、男性の方が外仕事に向いており、女性の方が家事に向いているのだ。女性が家事を嫌うのであれば、男性も家事を嫌うのである。家事を嫌うか否かは人間の先天的要素である。ただ、家事を嫌う割合は、間違いなく男性の方が多いだろうとは思う。それにそもそも、男と女を同じと言うなら、男と女に分かれている意味が無くなるではないか。両方あるからこそ、両方に尊敬すべき特徴があるからこそ、人は男と女に分かれていて、そのことに意味があるのだ。それを勘違いして、「女性の権利が少ない」など平等悪を言ってならない。

男性と女性の違いを歴史的に解説した自説
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20111215/1323948330