159.荀子 現代語訳 正名第二十二 一章

一章

 後王(現代に最も近い理想的な王)の成名(成した名前)について

 刑の名は商(殷)に従い、爵の名は周に従い、文の名は礼に従って、散名であるその他の万物に付けられる名前は各地方の風習に従いながらも、遠方異族のものとも全く違うものとはならないようにして、そうすることによってどこでも通じるようにする。

 散名(普通名詞)で人に在るものについて

 生まれながらにして自然に持っているものはこれを性と言う。生の和合が生ずるところであってそのほどよいところに適応してことさらでなく自然とそのようになるものも性と謂う。
 性によって生じてくる好悪喜怒哀楽といったものを情と言う。
 情によって心が選択をすることを慮と言う。
 心が慮ることによって能力の範囲内で動きを為すことを偽(自然な行為:ニセと読むのでなくて人の為す行動と言う意味でギと読む)と言う。慮が積み重ねられ能力によって少しずつ反復され、そうしてから成就されるようなこともこれを偽と言う。
 利と照らし合わせて利に沿うように為されることを事と言う。
 義と照らし合わせて義に沿うように為されることを行と言う。
 知る原因で人の中に内在しているものを知と言う。知っていることでこれが事実と適合するのならばこれも知と言う。
 うまくやる能力で人の中に内在しているものを能と言う。うまくやってこれが事実と適合することもこれを能と言う。
 生気が傷つけられることを病と言う。
 節遇(偶然、節目で遭遇すること)はこれを命と言う。

 これらが散名の人に在るものであり、後王の成名である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■実力の無さを感じて荀子現代語訳を中断していたが、道徳編(儒効第八)までの推敲と沙の作成が終わり、政治編(強国第十六まで)の読み直しも目処がついたので、現代語訳を再開することにした。(2013.11.19追記)

■好悪喜怒哀楽について、日本では、喜怒哀楽の四情しか取り上げられないけれど、喜怒哀楽と好悪は別の感情である。

■この好悪喜怒哀楽によって心が為す判断が慮りである。判断は知によって為されると思いがちであるけれど、知は好悪喜怒哀楽の感情によってその取捨が選択されている。だから、結局のところ、判断をしているものは、好悪喜怒哀楽である。A:信頼の道とB:詐術の道、両方を知っていることが知であるが、AとBのどちらを取るかは、突き詰めれば、どの知を好んだか、という情の働きに帰結される。つまり、理法に従うことは理法を好むという情によって生じ、姦悪邪僻偏執は理法を好まぬ情によって生じる。

論語 子路第十三より 子路孔子に問うて言うには、
「衛の王様が、先生を用いて政治をするとすたら、先生は最初に何をしますか」
「必ずその名を正すだろう(必ずや名を正さんか)」
「なんということでしょうか。先生の迂遠なことは。どうして名を正すのでしょうか」
「由(子路のこと)、おまえはなんと粗野なんだ。君子は知らないことがあれば、そのことについては保留しておくものだ。名が正しくないのならば、善言に従うことができず、善言に従うことができないならば事が成ることはなく、事が成ることがないのならば礼楽が興ることもなく、礼楽が興ることがなければ刑罰は的を得ないことになり、刑罰が的を得ていないと民衆は手足を安心しておくところがないことになる。だから、君子がものに名をつけるときは、それを必ず言わなければならない。そして、それを言ったのなら、それを行わなければならない。君子は自分の言ったことについて、それをかりそめにすることなどない。」