158.荀子 現代語訳 解蔽篇第二十一 十一・二章

十一章

 おおよそ、人が何かを知りたいと思うような自然な性情を用いれば、物の理を知ることができる。何かを知りたいと思うような自然な性情を用いて、物の理を知ることを求めながら、その上でも、疑いが止まるところ(落ち着くところ、確信できるところ)がないのであれば、世間での仕事を終えて年を重ねていたとしても、遍くしたとすることはできない。

 仮に、その理を求めて習うこと億万であったとしても、疑いが止まるところがないのであれば、万物の変を遍くしたとするには不十分であり、愚者と同じようなものである。学び続けて、体は老齢に達して子供も成長して、しかも愚者と同じようなものであるのに、そのやり方をやめることを知らない。こういった人を妄人と言う。

 だから、学びというものには、学んで止まるところがあるものである。
 では、どこに止まるのか。
 答えて、至足に止まる。
 何を至足と言うのか。
 答えて、聖王である。

 聖というものは、倫理(そこにある真理・みちすじ)を尽くすことであり、王とは、制(人のなす人為・制度・制御)を尽くすことである。この二つを同時に尽くすのならば、天下の極みとするに十分である。

 だから、学者は聖王を師とするのだ。すなわち、聖王の制を法として、その法に則って統類(その法の系統とその法と共通するもの)を求めて、そうして務めてその人を模倣しその人に習う。これに向い合って務めるのであれば士であり、これに類して(同じ立場となって)近付くのであれば君子であり、これを知っているのは聖人である。

 だから、知があったとしても、これ(聖王)を慮ることがないのであれば、これを攫う(無闇につかみ取る)と言って、
 勇があったとしても、これを保持していないのならば、これを賊(無闇に傷つける)と言って、
 察熟(細かいことまで熟考すること)であったとしても、これを分かつわけでないのなら(聖王の制であるのかそうでないのか分けないのであれば)、これを簒(無闇に奪う)と言って、
 多能多才であったとしても、これを修正することがないのなら、これを巧知(無闇に知っている)と言って、
 雄弁であったとしても、これを言わないのなら、これをエイ(言世)(無闇に口を動かす)と言うのだ。

 言い伝えに、「天下には両面性がある。非には是を察して、是には非を察す」とある。これは王制に合うのか、合わないのか、ということについて言っているのである。(王制とは蔽われないことであるから、物事の両面を見ることが一つ目の王制との合致点であり、この両面性を知った上での判断基準も王制なのである。よって二重の王制との合致点がある)

 天下には、これを隆正(貴んで第一とすべき正しいこと)としないものがる。そんなことで、どうやってしっかっりと是非を分けて曲直を治めるようなことができようか。もしそれが、是非を分けているわけでなく、曲直を治めているわけでなく、治乱を弁じているわけでもなく、人道を治めているわけでもないということであれば、うまくそれをしているからと言っても人に益することなどなく、うまくできなかったとしても人を損することもない。すなわち、こういったことは、ただ単に、怪説を治めて、奇辞もてあそんで、攪乱してぐちゃぐちゃにしようとしているだけである。

 つまり、人の口を遮るばかりで利口、厚顔で恥を忍んで、正しくないのに自身の思いつきに頼り、妄言(ありもしないこと)を言っては利に近付き、辞譲を好むことなく、礼節を敬うことなく、好んでお互いに押し合いへしあいする。これが乱世姦人の説である。すなわち、天下で説を治めている者は多くこのようなものである。

 言い伝えに「言葉の分析だけで詳しくなったとすること、具体的なことを分かつだけでこれを弁えとすること、君子はこれらを賤しむ。博聞強志であっても王制と合致しないのなら君子はこれを賤しむ。」とあるのは、このことを言っているのである。

 これをしたとしても成就に益することなく、これを求めても得るものがなく、これを心配してもいくばくも戒めにならないのなら、これを遠ざけてこれを棄て、自分自身の妨げとならないように、少しの間でも胸中がこれに干渉されることがないようにする。終わったことを慕うことなく、これから来ることにこまごまと心配することなく、ものおしみの心なく、時節に当たれば動いて、その物事が至れば対処して、何か事が起こればそれを取り仕切る。このようであるならば、治乱可否は照らされているかのように明らかである。

十二章

 周密で(側近とだけ内緒でものごとを進めて)成功し、漏洩(謀りごとが漏れて)失敗することは、明君にはないことである。宣言して成功し、隠して失敗することは、暗君にはないことである。

 だから、人に君主たるものが、周密であると讒言(ものごとをねじ曲げるような嘘の言葉)ばかりが通って、直言(正直な言葉)が無くなり、小人ばかりが近付いてきて君子は遠ざかることとなる。詩経に「真っ暗闇の そのおつむ 明るいものと 思うなら きつねとたぬきのばかし合い」とあるのは、この上が暗くて下がこみいっていることを言うのである。

 人に君主たる者は、宣言すれば直言が至って讒言が無くなり、君子が近付いて小人が遠ざかる。詩経に「明るい明るい 下に在って はっきりはっきり 上に在り」とあるのは、上が明らかで下が感化されていくことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■何度も言うが、難しい。