157.荀子 現代語訳 解蔽篇第二十一 九・十章

九章

 洞窟の中に人がいて、その名をキュウ(角及)と言う。この人は、遠いことや見えないことについて当てることを好んでそのことについて思慮をめぐらした。耳や目の欲望に心が動揺すれば思慮の邪魔となり、アブやブヨの音でさえ聞こえればその精密さは挫かれる。こういったわけで、耳や目の欲望を避けてアブやブヨの音を遠ざけて、閑居静思してものごとに道理に通じた。仁を思うことがこのようであるならば、微(前章の意味を継いで、人心はこれ危、道心はこれ微)であると言えるのだろうか。

 孟子は、その妻が礼を破ったことを憎んで妻を追い出した。これは仁のために敢えて自身の心に無理強いをしたと言うことはできるけど、(あらかじめ妻が礼を破らないに思慮を巡らすという点で)思うことには及ばない。

 有子は、怠って寝てしまうことを嫌って自身の手のひらを焼入れした。これは仁のために敢えて忍んだと言うことはできるけど、(怠ることより学問を好んでいればこんなことをする必要は無いから)好むことには及んでいない。

 耳や目の欲望を避けてアブやブヨの音を遠ざけることは、自身を戒めること(人心これ危)はできているのだが、まだ微であること(道心これ微)はできていない。

 微を兼ね備えた人とは、至人のことである。至人が、何を自身に無理強いして、何を忍んで、何を戒めるというのか。この故に、濁りのある明らかさは外に輝きを放ち、清い明らかさは内に輝きを放つ。(今上に述べた三人の行いは、分かりやすくて、多くの人に受け入れられやすく、そういった意味で外に輝きを放つ、しかしこれは濁っている。他方、至人は、一般の人からすると、彼がどうして至人なのか分からないけど、至人の心の内は蔽われておらず、これは清いものである)

 聖人は、自分の心の欲するままにして、自身の感情が抑圧されることはないが、聖人の心を制しているものは理なのである。何を自身に無理強いして、何を忍んで、何を戒めるというのか。だから、仁者が道を行うのは無為なのであり、聖人が道を行うのには無強なのであり、仁者の思いは恭しいもので、聖人の思いは常に心で楽しんでいる。これが心を治める道である。

十章

 そもそも、物を観ることに何らかの疑念があって、心の中心が定まっていないうちは、外物も清く明らかではない。自分の思慮が清く明らかでないのならば、ものごとの是非を決定することなどできない。

 暗いところで迷って歩いている人は、大きな石を見て虎だと思い、植木を見て人だと思うのは、暗い上に迷っていることによって、明らかであることが蔽われているからである。

 酔っ払いが、百歩ほどの幅ある水路を越えて半歩ほどの溝だと思い、大きな城門をほふく前進して門の横にある狭い勝手口だと思うのは、酒がその精神を乱しているからである。

 目に目隠しをされている人が、目隠しの布の下から目を見開いてものを見て、一つのことを二つだと思い、耳栓をしている人が、耳を澄まして何の音もしていないに騒音があると思うのは、そのときの勢(まわりの状況)が感覚器官を乱しているからである。

 だから、山の上から牛を見ると、あたかも羊のように見えるけど、羊を求めている人は下山してこの群れを率いようとは思わない。これは、遠いことが大きさを誤認させていることを知っているからである。(羊は従順な動物の代表である。一方、牛は特に雄には角があって、処置が施してないと危険である)

 また、山の下から木を見ると、20mの長さの木であっても箸のように小さく見える。けれど、箸を求めている人は山に登ってこの木を折ろうとは思わない。これは、高いことがその長さを蔽っていることを知っているからである。

 水が動いて、水面に写っているものが揺らいでいるとき、人はそれを見てその写っているものの美醜を決定したりはしない。これは水の情勢によってその写っているものが眩まされていることを知っているからである。

 目の不自由な人が空を仰ぎ視て星が見えていないとき、人はその人の判断によって星があるのかないのかということをけってしたりはしない。これは、目の不自由な人の目では小さい星があるかどうか分からないことを知っているからである。

 人が居て、この人がこの時に物事の判断を決定してしまうのなら、この人は世の愚者である。彼の愚者が何ごとかを決定することは、疑念によって疑わしいことを決定しているのであり、その決定が当たることなどはるはずがない。仮にも決定したことが当たらないのなら、どうして禍がないままで居られようか。(彼の愚者の物を定むるは疑を以て疑を決す、決必ず当たらず)

 夏水の南に、ケン蜀梁と言う人がいた。その人となりは、愚かで善くなにごとにも畏れるというものであった。この人が、月の明るい時に夜中に家を出て、うつむいて自分の影を見てこれを伏鬼と思い、上空を仰いで見た時自分の髪の毛を見てこれを立魅と思い、後ろ向きに走って家に帰ろうとしたが、家に着くまでの間に木を失って死んでしまった。これはなんと哀しいことだろうか。

 そもそも、人が鬼(幽霊)が居ると思うときは、瞬間的で幻覚か錯覚かわからないような時だけの印象によって、それが幽霊だったと決定するわけである。これは、人が有ることを無いとして、無いことを有るとする瞬間のことである。そうであるのに、既にこれをそうであったと決定してしまっている。

 こうして、陰気な気持ちに犯されて心が痺れて動けなくなり、心が痺れて動けなくなると太鼓を打って豚を煮て祈るということであるならば、太鼓の皮を破って豚を失うという費用がかかる。さらにこの上で、病気が治るという福も訪れない。だから、夏水の南に居なかったとしても何も違っていることはない。(思うに、夏水の南とか、ケン・蜀・梁とは、当時幽霊信仰が盛んで嘲笑の的になっていたところではないか。現在の日本なら恐山とか)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■今日の内容も難しかったが、この冴え渡った例えに驚愕する。今までの心術の内容について思い出していただくと、特に10章の前半の例えがいかに冴えているものであるか分かっていただけると思う。