132.荀子 現代語訳 天論第十七 四〜七章

四章

 その行いが要所を押さえて治まっていて、その養いも要所を押さえて適当であり、生(命)を損なうことがない。こういったことを天を知ると言う。だから、大巧はさかしらに為さないことにあり、大知は慮らないことにある。

 天を知る者はその目に見える現象の予期できるものに止まり、地を知る者はその目に見えるものの息うべきものに止まり、四季を知る者はその目に見えて計算された事とすべきことに止まり、陰陽を知る者はその目に見える和合で治めるべきことに止まり、全てについて余分なことを求めない。その役目にある人が天を守って、自分は道を守ることをするのだ。

五章

 治乱は天であるのだろうか。
 これに答えて、日も月も星も、それらが空を廻ることは、聖王の禹と暴君の桀で同じことであった。なのに、禹は治まって桀は乱れた。治乱は天ではない。

 では、時期であるのだろうか。
 これに答えて、春夏に成長して生い茂り秋冬に収穫して蓄蔵するのは、これまた禹と桀で同じことであった。なのに、禹は治まって桀は乱れた。治乱は時期ではない。

 地であるのか。
 これに答えて、地を得れば生きて地を失えば死ぬことは、これもまた禹と桀で同じことであった。なのに、禹は治まって桀は乱れた。治乱は地ではない。

 詩経 周頌・天作篇に「天が岐山を起こして 大王がこれを大きくし 大王が国を起こして 文王がこれを安泰にした」とはこのことを言ったのである。

六章

 天は人が寒さを嫌うからと言って冬をやめない。地は人が遠いことを嫌うからと言って広大であることをやめない。君子は小人が邪魔するからと言って行いをやめない。

 天には常の道があり、地には常の数があり、君子には常の行がある。

 君子はその道によるのだけど、小人は功績ばかりを計る。

 詩に「礼義に違っていないのに どうして噂を気にかけようか」とあるのはこのことを言ったのである。

七章

 楚王は車を千乗も所有しているのだけど知者であるわけではない。君子はまめがゆをすすって水を飲んでいるだけであるけど愚者であるわけではない。これは節がそうさせるのである。

 かの志意が修まっていて徳行が厚く智慮が明らかであり、今に生まれて古えの良き時代を志すようなことは、これすなわち自分に在ることである。だから、君子は自分にあることを大事にして、天にあることを慕うことがない。これに反して、小人は自分にあることを手放しにして、天にあることばかり慕うのである。

 君子はその自分に在ることを大事にして、天に在ることを慕わない、だから日々に進むことができる。小人はその自分にあることを手放しにして、天に在ることを慕う、だから日々に後退していく。

 これ故に、君子が日々に進む理由と小人が日々に後退する理由とは一つなのである。君子と小人が違っているのはここにあるのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■一見、わけのわからないようではあるが、荀子が最も伝えたいことは、「混同してはならない」ということである。天の役目と自分の役目、天がしていることと自分がしていること、天がすることと自分がすること、これは全く別のことである。それを混同してしまうのが人間であり、それを混同してしまうと、日々に後退することになる。

■「君子はその自分に在ることを大事にして、天に在ることを慕わない」とは、表面的に読むと、荀子がいかにも無神論者というか、全く何の信仰もない人に思える、しかし、それは違う。これを信仰に当てはめて言葉を変えるとこういったことになるのだ「君子は、その自分が何かを畏れ信じているということを大事にして、その畏れ信じている対象を無闇に慕うわけではない」▼賢者の賢者たる所以は、畏れるべきことを畏れ、敬うべきことを敬い、知らざることを知らずとすることにある。荀子も例外ではなかろう。

■やはり、天論に関しては、荀子が儒の異端とされる所以の章であり、そういった意味でも、注目が集まっているのであって、後代による欠落や補欠というものが多いのかもしれない。