史記を読んでいて9(市場経済と人との関係について)

史記を読んでいて、管仲のこのせりふを読んだ時に、少し不思議に思った。

「米倉が一杯になって民衆は礼節を知り、衣食に困ることがなくて民衆は栄辱を知る。上に居るものが度を過ぎないようにすれば親子兄弟親戚の絆は固まる。礼・義・廉・恥の4つのことについて気を配らないようでは国家は滅んでしまうことになる」

管仲とは、中国の春秋戦国時代の名宰相で、周王室の権威がほぼなくなり、その後諸侯が独立跋扈し始めた直後くらいに出た人である。だから、世が最も乱れていたときの人と言うこともできるだろう。というのも、この管仲の出現によって、一時、中国は混乱を収束したのである。つまり、世の中の混乱度を波で表現するのならば、最も潮位が下がる寸前に世に生まれ、最も潮位が下がった時に成人し、最も潮位が下がった直後に宰相の任についたのである。

このことがどうして市場経済と関係があるのかというと、かのアダム・スミスは、「米倉が一杯になって民衆は礼節を知り、衣食に困ることがなくて民衆は栄辱を知る」ということを、その著書、道徳感情論で明らかにしたあと、国富論にて、この理論を実践できる市場経済について明らかにしたからである。

つまり、アダム・スミス国富論とは、「民衆が余裕を持つことによって、道徳的に進歩することを期待した」ためにできた書物なのである。

そして、国富論市場経済を世に認知させた書物である。だから、市場経済とは、本来「民衆が余裕を持つことによって、道徳的に進歩することを期待することのできる」社会システムなのである。

だから、アダム・スミスはその著書によって、冒頭の管仲のセリフを経済学的に立証したに過ぎない。

では、管仲の生きていた時代、世の中がどれほど混乱していたのかということについて、私の知る限りで書きたいと思う。ニュートンの記事によると、この時代の人の平均寿命は、20才より少なかった(ということだったと思う)。これは、小児のうちに死んでしまう人が多かったこともあるのだろうけど、そもそも、人が生きるにはあまりにも物が少なすぎたからである。

農機具はというと、まず、コンバインなどない。さらには鉄器も広くは普及していなくて、まだ青銅の時代であった。だから、農作業をしたことがある人はわかるかもしれないけど、鉄より柔らかい銅では、土を耕すにも一苦労、挙句の果てには、クワを石にぶつけてしまおうものなら、大事なクワ先がひん曲がってしまう。クワがひん曲がれば農作業ができない、だから直さないといけない。しかし、農具を直していては、肝心の自分の食べ物を育てることもできない。

こんな有様で、食べ物を作るだけでも一苦労であるのに、この上で、支配者層は二代目三代目の先祖の七光りばかりの役立たずで、気に入らないことがあると戦争だといって、農民からコメを絞りとり、働き手をかっさらい、農民を圧迫して、自身は分不相応な贅沢をする。

そんなこんなで、道端には餓死した人が野垂れ死に、この遺体を引き取って埋葬する人など一人もいないばかりか、誰かがその遺体を邪魔だからと蹴飛ばして溝に落とす始末、天候が少しでも悪い年は町中に死臭が漂って、一人で出歩けば町中でも追い剥ぎに合う。

このように、現在からではとても想像もできないほどひどい時代であった。

このような時代において、管仲の言葉は正しい。アダム・スミスの時代はこの管仲の時代よりは良かっただろう。けど、それでも、アダム・スミスの考えは正しい。

しかし、現在ではどうだろうか?

この管仲の言葉にせよ、アダム・スミスの言葉にせよ、何の説得力も持たないばかりか、ほとんどの人は意味さえわからないだろう。なぜなら、食べ物はまずいからと言って捨てられ、売れなかったからと言って捨てられ、服は一度でもそでを通せば時代遅れだといって捨てられ、これだけ捨てられても、儲からないからと言ってまた余分に捨てられる。

このような世の中で、誰に、管仲アダム・スミスの言いたかったことの意味がわかるだろうか?

もう物的には事足りているのである。これ以上、物は必要ないのだ。もう管仲アダム・スミスも、この世の中には必要ない。彼らはただの時代遅れである。

では、アダム・スミスが望んで現在実現した「民衆の余裕」は一体何に使われているのだろうか?

「民衆の余裕」について考えることは難しいから、その前に、「食べ物の余裕はどこに行ったのか」ということについて考えてみたい。


一つは、ここに行ってる。それは炎の中、そして灰になって土の中。だけど、こういったことがどれだけもったいないことかを知っているとても賢い生物もいる。そう、それがカラスである。

カラスは、あの黒光りする羽と、大きくて優雅さもなく、小さくて可愛らしさもない見てくれ、さらには人をあざけり笑うかのような、あの「アホー」という鳴き声によって、多くの人から嫌われている。こればかりでなくて、人が捨ててしてまう食べ物を、「もったいないだろう」と食べ散らかすあの善行によっても、嫌われ者となってしまっている。荀子には、「器の小さい人は、相手が自分にしてくれる本当の真心を、自分を害する行為だとして忌み嫌う」とある。ちょうどそのように、人間もカラスのこの「食べ物を粗末にするな」という真心の忠告が気に入らないみたいである。

カラスを褒めるのはさておいて、カラスとは、本当に賢い鳥である。彼らが、我々にこの善行を施してくれるのは、彼らが他の野生動物に比べて賢いからである。だから、善行をすることによって、簡単に食物を得ることができている。

さらに、私はこういった場面も目撃したことがある。捨てられた塩鮭の皮を、三羽のカラスがついばみに来ていた。しかし、おかしな行動をしてる。その皮をすぐに食べずに、水辺に持っていくのである。そして、おじぎをしているようである。しかし、よく見ると、なんと、水に浸して塩気を抜いてから食べているのである。さらには、この限られた貴重な食物を三羽でお互いに口移ししながら食べているではないか。こういった食べ物に慎重な様子や、同族で仲睦まじい様子は、見習わなければらない人も多いのではないか?ヘタすると、カラスたちと人類とで比較したら、視点によってはカラスの方が優れているかもしれない。

このような賢いカラス君たちも、例の人への忠告という善行によって、アダム・スミスの提唱する「生活の余裕」ができたらしい。そして、彼らが、この余裕で何をしているかというと、公園とかでスベリ台を滑ってみたり、アンテナで逆上がりしたりしているらしいではないか。その他にも、性の悪い奴は線路に石を並べたりしているとか。

結局カラス君たちは何をしているのか?というと、専門家が言うには、遊んでいるというこらしい。(NHKダーウィンが来たより)結局、彼らは、生活の余裕を使って、遊んでいるのである。

では人間は?というと、人間もアダム・スミスの望んだ「生活の余裕」で「遊んでいる」のである。確かに、管仲の時代よりも、人類は豊かになり、豊かになったことだけで、人類は、死体を蹴飛ばすことや、町中で追い剥ぎや人攫いをするようなことは無くなった。

しかし、「生活の余裕」はどこに行ったのか、というと、「道徳的発展」でなくて、「道徳的退廃」に向かって使われている。人気のあるテレビのバラエティ番組を見ればそれはすぐわかる。多くの人がこれを見て笑っているのだろう。私も笑っているのだが、それに時間を費やすことは、先人たちが苦労して紡ぎだした「生活の余裕」を「人類の道徳的退廃」に浪費しているにすぎない。

なぜならば、「人をおもちゃにすること」で、笑いをとっているからである。誰かを騙して恋人のフリをさせてみたり、「いじられネタ」とか言って、人を馬鹿にして視聴者に優位を感じさせてみたり、とにかく、カラスが食べ物を分けあって食べるよりも間違いなく下劣なる所行によって、人を笑わせているのである。

新渡戸稲造の「武士道」によると、江戸時代の武士の子供は、七生報国の大楠公の武勇談や、忠臣蔵の義士たちの話を聞いて育ったということではないか?どちらが、子供の徳育にとって重要なものであるのか、言うまでもないことだと思う。ああいった下劣な番組によって子供の常識が形成されているのならば、学校でいじめが起こるのも当たり前ではないか。

では、われわれは、この「生活の余裕」を何に使うべきなのだろうか。そして、人間が地球で最も発達した生き物であるならば、カラスと同じ時間の使い方をしていていいのだろうか。