77.荀子 現代語訳 富国第十 一章

富国第十 一章

 万物は存在する空間こそ同じであるけれど、その形は各々違っていて、これという意味や役割が備わっているわけでないのに、これらのものが人の役に立てられるのは、必然のことである。そして、礼でも義でないことで人の便利に役立つことは、計算することに他ならない。

 人類は十人十色千差万別で並び居り、同じものを求めていてもその方法を異にして、欲することは同じであるのだけど欲する知の種類を異にするのは、その人の性質というものである。

 「よし」とすることそれ自体は、智者でも愚者でも皆同じであるのだけど、「よし」とすることの内容は、人それぞれで異なっているから、智者と愚者に分かれるのである。

 地位や条件は同じであるのに知っていることが異なり、私事を行っているに過ぎないのに禍がなく、欲を追い駆けて放蕩しながら行き詰ることがないのなら、多くの人はそれを見て心を荒立てるばかりで、喜ばすことなどできない。このようであったら、いかに智者といえども治めることなどできず、智者が治めることができないならば功名が立つとことなどあり得ないし、功名が立たないなら皆同じになってしまって序列がないことになり、皆が同じで序列が無ければ君主も家臣もあるはずがなく、君主が家臣を制することもないし、上が下を制することもない。

 天下の害は、欲ばかりを追い掛けて放蕩することから生じるのだ。人の欲は基本的には同じであるから、皆が皆、同じものを欲して、同じものを嫌うこととなり、同じものが皆から欲せられているのだから、欲の方が多くなってその欲せられているものが少ないということになり、ものの方が少ないのならば必ず争うこととなる。

 こういったわけであるから、百ある技術が作り出すものは、全て一人のことを養うのと同じなのである。しかし、いかに能力のある人でも一つの技術しか身につけることはできないし、人は一つの仕事しかできない。この故に、人から離れてお互いに頼ることをしないならば行き詰ることとなり、社会を形成しているのに役割分担がないのなら争うこととなる。行き詰ることは患えであり、争うことは禍である。患いを救って禍を除くためには、役割を明らかにして、社会を形成するに越したことはない。

 強者は弱者を脅かし、智者は愚者を恐れさせ、下は上に逆らい、若者が高齢者を凌ぎ、徳によって政治が行われないのなら、老人弱者は自分自身を養う心配と患いから逃れることができず、力強い人々は自分の役割を多くしようと争って禍となる。

 労力のかかる仕事は誰でも嫌うものであり、功名や利益は誰でも好むものである。この上で職業が分担されていなかったら、人々は仕事を始めることをためらって患い、功名と利益を得ることを争って禍となる。

 男女の和合や、夫婦間での分別、婚姻の時の結納や送迎など、男女のことに礼(一定の決まりや暗黙の社会的ルール)がなかったら、人々はほれたはれたや振られた振ったで患えから離れることができず、男どもは女色を貪り争って禍となる。だから知者は、男女間のことにも分別を忘れないのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■なるほどと思った。何度も言うが、当たり前のことである。何事にも、ルールや役割が与えられるから、患えが出ずに争いが起きないのである。実に簡単なことだけど、忘れがちなことである。特に男女間のルールなどは、近代になって特に乱れているようだけれど、これが晩婚化や少子化の大きな原因の一つなのではないだろうか。自由な恋愛は、「何が悪いの?」と言われても反論できないと思っていたけれど、この観点からなら反論できる。つまり、自由な恋愛が社会で認められているから、そういったことに関する争いが絶えないのであり、そういったことで悩む人が多いのであり、その結果として結婚しない人やできない人が増えるのである。占いすると、若い女性の9割近くがこのことで悩んでいる。自由であることが、一番の悩みの原因なのである。