78.荀子 現代語訳 富国第十 二章

二章

 国を富ますための方法は、使うべきことに費用を使って民衆に余裕があるようにし、そうして余った分を備蓄することにある。使うべきことに費用を使うには礼を用いて、民衆に余裕を持たせるためには政治を用いる。(用を節するには礼を以てし、民を裕(ゆたか)にするには政を以てす)

 民衆に余裕を持たせるから余財が多くなる。民衆の生活に余裕が出れば民衆は富むこととなり、民衆が富めば田畑が肥えて農作物が育ちやすくなり、田畑が肥えて農作物が育ちやすければ収穫物は百倍となる。上は法を用いることで税を取り、下は礼を用いることでこれを使うべきことだけに使うのならば、余りが出ることは山のようになり、集めた年貢を時々焼き捨てなければ備蓄する倉庫さえなくなってしまうほどである。

 だから、費用は使うべきことだけに使って民衆に余裕を持たせることを知るならば、必ず仁義聖良の名を得て、かつ富裕であることは山のように積まれるがごとくである。これには他の理由などない、つまり、費用は使うべきことだけにして民衆に余裕を持たせることを知ることがその根本たる原因なのである。

 費用を節約することを知らないのならば、民衆は貧しくなり、民衆が貧しくなれば田畑は瘠せて荒れることとなり、田畑が瘠せて荒れれば収穫は半分以下となる。上に居る者が取ることを好んで侵奪ばかりしていたとしても、獲るものは少ないに違いない。

 この上で礼を用いることで使うべきことだけに費用を使うことを知らないのなら、必ず貪欲搾取の不名誉を蒙って、かつ実情は空虚窮乏することになる。これには他の理由などない、つまり、費用は使うべきことだけにして民衆に余裕を持たせることを知らないことがその根本たる原因なのである。

 書経・康誥篇に「民衆を広く覆うことが天のようになって、徳に従うのなら、自身にさえも余裕が訪れる」とあるのはこのことを言っているのである。

 礼というものは、貴賤に等級があって、長幼に差別があって、貧富軽重にみなそれにふさわしい呼び名や役割を割り当てるものである。だから、天子は朱色の地に竜が描かれた衣を身にまとってベンの冠をかぶり、諸侯は赤黒い地に竜が描かれた衣を身にまとってベンの冠をかぶり、大夫は卑という衣にベンの冠をかぶり、士は白鹿の皮でできた皮弁をかぶってそれに応じた衣服を着るのである。

 徳は必ず位に相応しいものであり、位は必ず録に相応しいものであり、録は必ず必要な出費に相応しいものである。(昔は必要経費込みの給料が禄であった。だから、出費に相応しい禄とは無駄な贅沢ができるほど多いものではない)

 士より等級が高い者は、必ず礼を楽しむことによって費用を節約し、庶民百姓は、必ず法と秩序だった計算によって管理される。土地を測量して国を立て、うまく効率が良くなるようにして民衆を養い、人の力を正しく評価することで仕事が与えられ、民衆を力強く励まして事業を行い、事業を行って必ず利益を出し、利益を出してその利益を民衆に還元して生活が立ちゆくようにする。皆が衣食百用を満足に行って、収入と出費が同じとなり、そして必ず時々余りを貯蓄することができる。こういったことを、相応しい呼び名や役割を公平に割り当てるための計算術と言うのだ。(これを称の数と謂うなり)

 こういったことであるから、天子から庶民に至るまで皆が皆、事の大小と多少に関わらずに、礼によって自分の役割ややるべきことを推測するのである。だから、朝廷には運よく高い位に就く者などなく、民にも運よく僥倖を得る者などない、と言ったのはこのようなことのことである。

 田畑の税は軽くし、関所や市場の征税は公平にし、商人の数を減らし(卸売業者のことだろう)、大きな土木事業などは滅多に行わないようして農業に支障が出ないようにする。このようにするならば国は富むこととなる。こういったことを政治を用いて民衆に余裕を持たすというのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■冒頭の一文で、荀子はなんて賢いんだろうと思った。当たり前のことだけど、使うべきことだけに費用を使うことが節約であり、無理して節約するならば、それは吝嗇というものである。だから、必要最低限の費用を必要最低限の出費に回すことが節約なのである。こういったわけで、「節」という字を、若干長くなるが「使うべきことだけに費用を使うこと」などといった具合に訳した。▼それで、その使うべきことだけに費用を使うためには、礼を用いるのであるが、易経の次の卦を思い出した。つまり山火賁と水沢節である。この章に書かれていることは、この卦との関係が非常に深い。

■礼楽を、今までは、「礼と楽」(礼と音楽という別のもの)として訳していたけど、今回は「礼を楽しむ」と訳した。音楽とは調和のためのものであり、調和は礼によってもたらされるものであり、礼によって調和するならばそこには楽しみがある。こういった訳で「礼楽」という言われるのだと、今日気がついた。