荀子の現代語訳をしていて

荀子の現代語訳を続けていて、その効果が少し出てきた気がする。

自分で言うのもなんだが、賢くなったと感じるわけだ。

荀子は確かに難しいのだけれど、しかし、実は、何も難しいことは言っていない。

水がいっぱいに入ったコップを傾ければ水はこぼれる。水を土の上にこぼせば再びその水をコップに入れることはできない。そして、コップの中の水が減れば水を飲む量は減る。基本的にこういった当たり前のことしか言っていない。

だが、荀子が賢い所以は、この当たり前のことを積み上げるのに、正しい方のことばかり、確実で当たり前のことの方ばかりを選んでいることにあるのである。

だから、もし荀子が賢者たる所以を捨てるなら、こういった理論を展開することになるだろう。水がいっぱいに入ったコップは慎重に扱わなくても良い。なぜなら、水はいつでもどこでも汲めるからである。水はこぼしてしまっても良い。なぜなら、その水をこぼした場所は運よくバケツの上であるかも知れないからである。水を飲む量は減っても良い。なぜなら、水は明日でも飲めるであろうからである。

しかし、現実はこうではなくて、明日になったら大地震があって、水は簡単に手に入らなくなるかもしれないし、そんな運よくバケツがあるはずもなく、明日飲もうと思っていたその水を飲まなかったためにその日の晩に死んでしまうかもしれない。

だから、荀子は、常に正しい判断をして、実に簡単な当たり前の正しい判断の積み重ねをしているに過ぎない。多くのことが積み重なっているから、難しいように感じるし、複雑なことを正しく表現するために、多くの言葉を使っているから、難しく感じるのである。

また、荀子が何度も言っているように、幽険の論(かすかでわかりにくく難解な論理のこと)は本来は避けなければならないことである。あくまでも論理はわかりやすいことが重要なのである。わかりやすいものでなかったら、恐らくそれは真実のことでない。

こういったわけであるから、賢いことは難しいことではなく、実は単純なことであると思えるようになってきたのである。ただし、賢いことが難しく感じられるのは、表現を正しくするために多くの言葉が使われることや、また、自分が当たり前のことすら分かっていない人間と思わなければならないことにあるのである。

とは言うものの、このような成果を自分で認めておきながら、最近はやる気が下降気味である。それもそのはずで、最近、通算で荀子の現代語訳が75になったのだけど、これは前の学問のすすめに匹敵しているからである。つまり、ここから先は未体験ゾーンなのである。既にさぼった日もあるのだけど、とにかく、毎日やり続けることは難しい。しかも、目に見える成果は特になく、社会的に目に見えて出世したりするわけでもないから、そういった意味でもやる気が出ないのであろうと思う。しかし、ここはなんとか踏ん張って続けたいと思う。