122.荀子 現代語訳 議兵篇第十五 四・五章

四章

 孝成王と臨武君「そうであるならば、次は王者の軍制について教えていただけませんか」

 孫卿子「将は鼓に死んで、御者はくつわに死んで、役人は職に死んで、士大夫は行列に死ぬものです。太鼓の音を聞いて進軍し鐘の音を聞いて後退して、善い命令に従うことが上であり、戦功を挙げるのはこの次でしかありません。命令では進むことになっていないのにそれでも進むのなら、これは退くなという命令があるのに退くことと同じであり、その罪は同じであります。

 老弱の人は殺さず、田畑を荒らすことなく、屈服する人を捕虜にすることなく、手向かう者は許さず、逃げる者を無理に捕まえようとはしません。

 そもそも、誅というのはその百姓を誅することではなく、百姓を乱れさせている者を誅することなのです。しかし、百姓のうちで賊のために戦う者があるのならこれもまた賊であります。ここで、刃を見てこちらに同じる者は生かして、刃を見ても向かってくる者は殺し、命乞いする者は上官に与えてともに働かせるようにします。

 微子開は宋に諸侯として封じられて、曹触竜は軍によって斬り殺され、殷の民衆で周に屈服した者は周の民衆と何の違いもなく養われました。だから、近くに居る者はこのことを謳歌して楽しみ、遠くに居る者は我先にと足をつまづかせんばかりにここに赴き、辺鄙辺境の国も周王朝のために走り回って安楽を得て、四海の内は一家のようで通達を出せばこれに服さないという者はなかったのです。こういったことを人の師である言います。詩経 大雅・文王篇に「東からも 西からも 服さないということはない」とあるのはこのことを言ったのです。

 王者には誅があっても戦はありません。守っている城を攻めることなく手向かう兵を攻撃することはなく、上下がともに喜ぶのならこれを祝福し、城を落とすことなく、軍を隠すことなく、民衆の意向を抑えつけるような事なく、時期を過ぎるということはないのです。だから、乱れた国の民衆はこの王者の政治を心で楽しみ、自分の乱君に安んずることなく、むしろこの王者が向かってくることを願うのであります。」

 臨武君「善し」

五章

 弟子の陳ゴウが孫卿子に尋ねて言うには「先生が兵の事を議論すると、常に仁義がその本となっております。仁者は人を愛して義者は理に従うもの、そうであるんらばどうして兵という手段を用いるのでしょうか。」

 孫卿子「それはお前の分かることではない。仁者は人を愛する、人を愛するが故に、人がこれを害することを嫌うのだ。義者は理に従う、理に従うが故に、人がこれを乱すことを嫌うのだ。

 かの兵というものは暴を禁じて害を防ぐためのものなのである。争奪するものではない。

 だから、仁人の兵は、その軍が留まってるところでは治まり、その軍が過ぎるところのは感化され、時に適った雨が降るかのように喜ばれないということはない。

 このために、堯はカン兜を伐ち、舜は有苗を伐ち、禹は共工を伐ち、文王は崇を伐ち、武王は紂を伐ったのだ。この両帝四王は皆仁義の兵によって天下に行ったのである。

 この故に、近き者はその善に親しみ、遠き方はその義を慕い、兵は刃を血に染めることなく遠きも近きも着たり服した。徳はここで盛んとなって四極にもそれが施され及ぶほどとなった。詩経 曹風・尸鳩篇に「立派で徳あるあのお方 義に違うようなことはなく 義に違うことなくて この四国を正すのだ」とあるのはこのことを言ったのである。」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■理のない力を暴力、理のある力を武力と呼ぶのならば、この荀子が語る兵こそが本当の武力というものであろう。強い力によって弱い力を抑えつけることは、ほとんど暴力であり、私の考える限りでは、デモも一種の暴力であると思っている。だから、これは究極として、宗教的には排除されるべきである、しかし、政治的にはそれを無視しなければならぬときがあるのだ。そして、それがそのように行われるべき礼に適っているような状況をここで荀子が説明していると言える。