121.荀子 現代語訳 議兵第十五 三章

三章

 孝成王と臨武君「そうであるならば、将であることについて教えてください」

 孫卿子「知は疑わしいものを捨てることより大なることはなく、行いは過ちがないことより大なることはなく、事は悔いが残らないより大なることはない。事は悔いがないことにいたればそれ以上の事はなく、必ず成功しなければならないというわけではないのです。(知は疑わしきを棄つるより大なるはなく、行は過ちなきより大なるはなく、事は悔なきより大なるはなし。事は悔なきに至りて止み、成功は必すべからず。)

 この故に、制号や政令は、厳しくて権威のあることを求め、
 賞と刑罰については、必ずということと信用できるものであることを求め、
 兵営や穀物庫は、隙が無くて堅固であることを求め、
 挙行や進退には、安くして重いこととすぐに動き出して速いことを求め、
 敵を伺って変化を観察することには、潜り隠れて深いことと伍隊を組んでまとまりがあることを求め、
 敵に遭遇して決戦するときには、必ず自分の明らかに知っている道に由るようにして疑わしい道には由らないようにする。
 これらのことを六術と言います。

 将軍になりたいと思っても罷免された時はそれを嫌がるようなことはなく、
 勝ちを急いで敗北を忘れるようなことはなく、
 内ばかりに威勢を張って外のことを忘れて軽視することなく、
 利益ばかりを見て害悪の方を顧慮しないということがなく
 事を慮るのには熟慮するようにして財貨を使うことにはゆるやかであるようにする。
 これを五権と言います。

 命令を君主から受けない場合が三つあります。
 殺すべきであるのに、全てを完遂しないままの状態に止めてはなりません、
 殺すべきであるのに、勝つことができないなら、攻撃してはなりません、
 殺すべきであっても、百姓を欺いてはなりません。
 これを三至と言います。
 
 そもそも、命令を君主から受けて三軍を行軍させ、三軍が既に定まっていて役職者の序列も当を得ていて全てのものが皆正しいという状態であれば、それは当たり前のことですから君主が喜ぶことができないですし、敵もそれを見て怒ることすらできなくなります。こういったことを至臣と言います。

 思慮は必ず事より先に行われて、これが申されるのには敬(大事にする気持ち)があり、終わりを慎むこと始めと変わらず始終が一であるかのようならば、こういったことを大吉と言います。

 そもそも百事について、成功するときは必ずそこに敬があるのであって、失敗するときは必ずそこに侮りがあるものです。ならば、敬が怠に勝つときは吉であるが、怠が敬に勝つときは滅びることとなり、計が欲に勝つときは従うのであるけれど、欲が計に勝つときは凶となるのであります。

 戦っているときはあたかも守っているかのようにして、
 行軍しているだけなのに既に戦っているかのようにして、
 戦功が挙がってもそれはまぐれであったかのようにし、
 謀りごとを謹んでかと言っておろそかにすることはなく、
 敵への敬意を忘れずぞんざいに思うことはない。
 こういったことを五無壙(五つのおろそかにしないこと)と言います。

 慎みを忘れないで、この六術・五権・三至を行って、しかもこれを行うのには恭敬と無壙による。このような者を天下の将と言って、神明に通じることもできるのです。」

 孝成王と臨武君「善し」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■さっき、三至と同じように君主と将軍の関係を述べた部分が孫子にもあって、それも三つであったから、それを確認するために孫子を読んだのだけど、内容自体が比べ物にならなかった。孫子を読んでいた時は、これほどの書物はないと思っていたのだけど…、まあ、「善し」としか言えない。